セシルの弔いは、鎮魂会の巡礼船《静誦》で行われることになった。オルコットが、グラン院長に願い出たことだった。
《静誦》は、鎮魂会が保有する数少ない巡礼船の一つで、戦没者を弔うための聖堂を、船体の中央に据えた特殊な構造をしていた。国家の旗を掲げず、いずれの軍籍にも属さないその船は、灰域の各地を巡りながら、両軍の戦没者を分け隔てなく弔い続けている。オルコットは、通信でグラン院長にその話を切り出した時、自分でも驚くほど、迷いがなかったことを覚えていた。
「――彼女は、どちらの国家にも、完全には属せませんでした」
オルコットは、静かに言った。通信端末の向こうから、グラン院長の穏やかな沈黙が伝わってくる。
「だから、国家の外にある場所で、弔ってやりたいのです」
グラン院長は、深く頷いた。その顔には、長年、無数の死者を見送ってきた者だけが持つ、静かな重みが宿っていた。
「――喜んで。彼女もまた、この鍵を守るために、命を捧げた一人です」
その言葉に、オルコットは、初めて少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。セシルの死が、決して個人的な悲劇にとどまるものではなく、この鍵を巡る、長い戦いの一部として、正しく記憶されるのだということが、彼にとって、何よりの救いだった。
グラン院長は、続けて、弔いの日取りと段取りについて、丁寧に説明を加えた。巡礼船の乗組員たちが、既に準備を整えつつあるという。国家という枠組みから解き放たれたこの場所でなら、セシルという一人の人間の生涯を、誰にも歪められることなく、静かに送り出すことができる。オルコットは、その説明を聞きながら、この選択が間違っていなかったことを、確信していった。
《薄明》は修理のため一時的にドックへ入り、その僅かな期間を利用して、乗員たちは《静誦》へと向かった。船内に足を踏み入れると、線香とも違う、乾いた木の香のような、独特の匂いが漂っていた。聖堂の壁面には、幾つもの銘板が並び、そこには、両軍を問わず、これまでにこの鍵を巡る戦いで命を落とした者たちの名が、静かに刻まれていた。
聖堂の天井は高く、遠く彼方の宙域の光を取り込むための、大きな硝子窓が幾つも並んでいた。その窓の下には、修道士たちが日々の祈りを捧げるための、簡素な木の長椅子が整然と並べられている。オルコットは、この場所に足を踏み入れるたびに、灰域の戦火とはまったく異なる、静謐な時間の流れを感じていた。ここでは、誰が同盟の兵で、誰が連邦の兵であったかということは、もはや意味を持たない。ただ、名前と、その者が生きた証だけが、静かに残されていく。
修道士たちが、聖堂の隅々まで丁寧に手入れをしている様子が見えた。彼らの動きには、どこか職人的な、静かな誇りが宿っていた。弔いという仕事を、彼らは単なる儀礼としてではなく、一人一人の生の重みに向き合う、真剣な営みとして続けているのだと、オルコットは改めて感じた。
聖堂の壁面、双方の戦没者の名が刻まれた銘板の一角に、新たに「セシル・マーロウ」の名が刻まれた。彫刻師が、丁寧な手つきで、一文字ずつ、その名を石に刻んでいく様を、オルコットは、微動だにせず見つめていた。連邦兵でも同盟兵でもない、ただ一人の、鍵を守るために生きた人間の名として、その名は、これから先も、この銘板に残り続けることになる。
弔いの席には、オルコット、ダーナ、レフ、イズマ、そしてマグダとアダムが集まった。それぞれが、それぞれの形で、セシルとの日々を思い出していた。誰も、多くを語らなかった。言葉にすれば、堪えていたものが崩れてしまう、そんな予感を、皆が共有しているようだった。
ダーナは、いつもの凛とした表情の下に、隠しきれない悲しみを滲ませていた。彼女とセシルは、艦の作戦室で幾度となく肩を並べ、無人艦への対策を練ってきた仲だった。レフとイズマもまた、それぞれの持ち場でセシルの助言を受け、幾度となく窮地を救われてきた乗員だった。誰の胸にも、彼女への感謝と、その死への悲しみが、複雑に絡み合っていた。
マグダの残り火隊は、この一年、灰域の各地で同盟軍の支援を続けてきた義勇の集団だった。アダムは、鎮魂会の若い修道士として、この巡礼船と《薄明》の間を、幾度となく往復してきた。二人がこの場に居合わせたのは、決して偶然ではなかった。セシルという一人の技術者の存在が、これほど多くの立場の人間たちを、静かに結びつけていたのだということを、オルコットは改めて実感していた。
「――彼女、最後まで、俺たちのために働いてくれたよ」
マグダが、静かに言った。彼女の声には、いつもの豪胆さの代わりに、静かな沈痛さが滲んでいた。
「あの解析データがなけりゃ、あの戦闘で、もっと多くの犠牲が出てたはずだ」
「ああ」
オルコットは、短く答えた。それ以上の言葉は、出てこなかった。彼女の犠牲によって救われた命の数を、正確に数えることはできない。だが、その数が決して小さくないことだけは、確かだった。
聖堂の窓からは、灰域の淡い光が差し込んでいた。恒星の光がろくに届かないこの宙域でも、時折、遠い星々の光が、塵の隙間から漏れ届くことがある。その光は、聖堂の石造りの床に、儚い模様を描いていた。オルコットは、その光の模様を見つめながら、セシルが最後に見た光景が、どんなものだったのかを、ふと考えた。彼女が最期に見たのは、この戦争の暗闇だったのか、それとも、もっと別の、穏やかな何かだったのか。それを知る術は、もう永遠に失われていた。
彫刻師の手が止まり、銘板の前に、しばしの静寂が訪れた。集まった者たちは、誰からともなく、その場に頭を垂れた。祈りの言葉を知らないオルコットは、ただ、心の中で彼女の名を、もう一度だけ、静かに呼んだ。グレイ、と彼女が最後に呼んだ自分の名前が、今度は逆に、彼の口の中で、音にならないまま繰り返されていた。
修道士の一人が、低い声で、弔いの詩を唱え始めた。それは、特定の神への祈りというよりも、この鍵を巡る戦いに斃れたすべての者たちへ向けた、静かな鎮魂の言葉だった。国家の名も、階級も、そこには意味を持たない。ただ、生きたという事実と、その生が誰かに何かを残したという事実だけが、言葉の中で丁寧に紡がれていった。
弔いの後、グラン院長がオルコットに、静かに歩み寄った。老院長の足取りは、以前よりもわずかに重く見えた。長引く戦争は、この鎮魂会の長にも、確実に負担を強いているようだった。
「――艦長、これから、あなたはどうされますか」
オルコットは、しばらく沈黙した後、答えた。窓の外の灰域を見つめながら、彼は、自分の中に残る、確かなものを言葉にしようとした。
「――戦います。この戦争が、いつか終わる日まで」
「憎しみのためにですか、それとも」
グラン院長の問いは、静かだが、鋭さを含んでいた。
「――違います」
オルコットは、首を振った。
「セシルが守ろうとしたものを、俺も守りたいだけです。彼女が繋いだ命を、無駄にしないために」
グラン院長は、静かに微笑んだ。その微笑みには、長年、戦火の中で無数の悲しみを見つめてきた者だけが持つ、深い理解が滲んでいた。
「――その言葉、忘れないでください。憎しみは、いつか、この鍵の存在意義そのものを、蝕んでしまう。あなたが今、口にした想いこそが、この鍵を、正しい場所に留め続ける力になります」
その言葉は、単なる慰めではなく、この鍵を守り続けるという、長い長い営みの本質を突いているように、オルコットには感じられた。憎しみから始まった行動は、いずれ憎しみに飲み込まれる。だが、守りたいという想いから始まった行動は、たとえ長い年月を経ても、その原点を見失わずにいられるのかもしれない。
グラン院長は、続けて、静かにこう言葉を継いだ。
「――私は、これまで多くの死者を見送ってきました。国家のために死んだ者、信念のために死んだ者、そして、ただ巻き込まれただけの者。その誰もが、名を持ち、物語を持っていました。マーロウ技術顧問もまた、その一人です。彼女の名は、この銘板に刻まれた瞬間から、もう決して消えることはありません」
オルコットは、その言葉に、深く頷いた。数字としてしか記録されない死者が、この戦争にはあまりにも多い。だからこそ、この銘板に刻まれる一つ一つの名前には、特別な重みがあるのだと、彼は改めて感じていた。
レフとイズマもまた、聖堂を出る間際、それぞれに小さく頭を下げていった。彼らにとっても、セシルは、単なる技術顧問という立場を超えた、共に戦い抜いた仲間だった。その一人一人の弔い方が、決して同じではないことを、オルコットは、この場に集った者たちの様子から、静かに感じ取っていた。悲しみの表し方は人それぞれであっても、その根底に流れる想いは、皆、同じものだった。
オルコットは、深く頭を下げた。灰域の暗闇の向こうに、まだ長く続く戦争が待っていた。だが、彼の胸には、セシルとの日々が残した、消えない灯火があった。それは、彼女が最後まで抱き続けた、あの願い――誰にも、あの日の光景を、二度と見せたくないという願いを、彼自身が引き継いでいくのだという、静かな決意の灯火だった。
《静誦》を後にする時、オルコットは、もう一度だけ、聖堂の銘板を振り返った。夕暮れとも呼べない灰域の淡い光の中、「セシル・マーロウ」という五文字が、静かにそこに刻まれていた。彼は、その文字に向かって、小さく一礼し、そして踵を返した。乗員たちも、それぞれに、最後の別れを済ませて、船を後にした。
《薄明》へと戻る短艇の中、誰も言葉を発さなかった。窓の外を流れていく灰域の暗闇を、オルコットはただ黙って見つめ続けていた。この先も続く戦争の中で、彼が背負っていくべきものの輪郭が、少しずつ、彼自身の中で形を成し始めていた。
(第95話へ続く)