医務室には、静けさだけがあった。先ほどまでの戦闘の喧騒が嘘のように、ここには、機器のわずかな駆動音と、誰かの押し殺した呼吸音だけが漂っていた。白い照明が、その静けさを、いっそう際立たせていた。
壁際の棚には、使われたばかりの止血材の空き箱や、血の付いたガーゼが、乱雑に積み上げられていた。医務班員たちが、ぎりぎりまで手を尽くした跡だった。彼らを責める気持ちは、オルコットには微塵もなかった。むしろ、最後まで諦めずに戦ってくれたことに、感謝の念すら覚えていた。だが、感謝の言葉を口にする余裕は、今の彼にはなかった。
床には、まだ乾ききっていない血の跡が、点々と残っていた。オルコットは、その跡を踏まないよう、無意識のうちに足の運びを選びながら、担架のそばへと歩み寄った。たった数歩の距離が、これほどまでに長く感じられたことはなかった。
「――間に合いませんでした。出血が、あまりに」
医務班長の声は、消え入りそうだった。彼は、これまでの戦闘で、幾人もの乗員の死を看取ってきた男だった。それでも、この報告だけは、これまでのどの報告よりも、口にするのが辛そうだった。オルコットは、何も言えなかった。ただ、セシルの手を握り、その冷たさを、確かめるように感じていた。数時間前まで、この手は、確かに温かかった。今はもう、その温もりの記憶さえ、指先から薄れていくようだった。
艦橋の外では、まだ戦闘の余波が残っていた。損傷区画の修復作業を知らせる連絡が、時折、無線越しに聞こえてくる。だが、その音は、オルコットの耳には、ひどく遠いものに感じられた。
「――セシル・マーロウ。連邦軍元技術士官、同盟軍技術顧問」
オルコットは、震える声で、彼女の記録を口にした。三年前に誓った約束――名もなく死なせない、という約束を、彼は今、自分自身の手で果たそうとしていた。あの約束は、彼が初めて自律核実弾試験事故の惨状を目撃した日、瓦礫の中で名も告げられぬまま片付けられていく遺体を見て、心に刻んだものだった。あの日から、彼はどれほどの死者の名を、こうして自分の口で刻んできただろうか。だが、今この瞬間ほど、その言葉の重さを噛みしめたことはなかった。
「――自律核倫理制限の設計に携わり、正規管制鍵の存在を守るため、祖国を離れる決断をした。灰域衝突からノクターン攻防戦、そして開戦後の最前線に至るまで、その知識と勇気で、幾度となく多くの命を救った」
彼の声は、途中から震えていた。だが、彼は最後まで、その記録を言い切った。声が詰まるたびに、彼は一度目を閉じ、深く息を吸い、そしてまた続けた。これは、彼女に対する、彼にできる最後の、そして唯一の弔いだった。
「――最期の瞬間まで、任務を全うした」
言い終えた瞬間、オルコットの中で、それまで堰き止めていた何かが、静かに崩れ落ちた。彼は、その場に膝をつき、彼女の手を額に押し当てた。声にならない何かが、喉の奥から込み上げてくる。だが、それを外に出すことは、最後まで、彼にはできなかった。
艦長という肩書きは、感情を殺すための鎧のようなものだと、彼はこれまで何度も思ってきた。だが今、その鎧の重みが、これほどまでに苦しいと感じたことはなかった。声を上げて泣くことすら許されない立場が、彼の胸を、内側から締め付けていた。彼は、代わりに、長い長い沈黙の中で、その痛みのすべてを、一人で受け止めるしかなかった。
医務班長が、そっと部屋を出ていった。他の班員たちも、無言のまま、それに続いた。誰も、この場に艦長を一人にすることをためらったが、それ以上に、この時間を邪魔してはならないという思いの方が、勝っていた。
ダーナが、静かに艦長室の扉の外で控えていた。彼女もまた、セシルと共に幾度となく戦い抜いてきた仲間だった。だが、今この瞬間、彼女にできることは、ただ、艦長の悲しみを、そっと見守ることだけだった。乗員たちも、皆、言葉を発さずにいた。艦内の廊下には、いつもと変わらぬ機器の駆動音だけが響いていたが、その静けさは、これまでのどの静けさとも違う、重く沈んだものだった。すれ違う乗員たちは、誰もが一様に、俯きがちに歩いていた。誰かが小さく鼻をすする音が、時折、廊下の奥から聞こえてきた。この艦に乗る誰もが、セシルという人間の存在の大きさを、身をもって知っていたのだった。
艦全体が、まだ僅かに振動を残していた。跳躍による離脱の余波が、艦体の隅々にまで、微かな唸りとなって伝わっていたのだった。オルコットは、その振動を、まるで艦そのものが泣いているかのように感じていた。実際には、ただの機械的な余熱に過ぎないとわかっていても、彼の心は、その振動に、意味を見出さずにはいられなかった。
その夜、オルコットは一人、艦長室でセシルの遺品を整理した。技術顧問として乗り込んでから一年足らず、彼女の私物は、驚くほど少なかった。着替えが数着、使い込まれた技術資料の端末、そして小さな布袋。荷物の少なさが、彼女がどれほど身軽に、覚悟だけを抱えてこの艦へ乗り込んできたかを、物語っているようだった。
端末の中には、彼女が書き溜めていた技術メモが、几帳面な字で整理されて残されていた。無人艦の制御信号解析、暗号化パターンの推移、そして倫理制限機構の設計思想についての、彼女自身の考察。それらのメモの端々には、時折、彼女らしい皮肉めいた一言が書き添えられていた。オルコットは、その端末を閉じ、しばらくの間、指先でその表面を撫でていた。
彼女が持ち込んだ、わずかな私物の中に、一枚の古い写真があった。まだ幼い頃のセシルと、彼女の家族が写る、連邦の穏やかな田園風景の写真だった。写真の中の彼女は、屈託のない笑顔を浮かべていた。今の彼女からは、少し想像しにくい、無邪気な表情だった。
「――あなたが守りたかったものは、これだったんだな」
オルコットは、静かに呟いた。写真の中の田園風景と、灰域の戦場と、その落差の大きさに、彼は改めて胸を締め付けられた。彼女が最後まで背負っていたのは、国家への忠誠でも、裏切りの罪悪感でもなく、ただ、あの日見た光景を、二度と誰にも見せたくないという、シンプルな願いだったのだと、彼は改めて理解した。
彼女がかつて語ったことがある。倫理制限設計チームの一員として、あの事故の隠蔽に、間接的にでも関わらされたことが、彼女の中で、決して消えない傷になっていたのだと。祖国を離れるという決断は、彼女にとって、決して軽いものではなかったはずだ。家族との縁、これまで築いてきた地位、すべてを捨てての選択だった。それでも彼女は、この道を選んだ。そのことの重さを、オルコットは、今更ながらに噛みしめていた。
戦前の技術交流会議で初めて彼女と言葉を交わした時、彼女はまだ、連邦軍の若き技術士官という立場の中に、確かな誇りを持っているように見えた。それが、少しずつ、疑念へと変わっていく様を、オルコットは、彼女と過ごした時間の中で、間近に見てきた。その変化は、決して簡単なものではなかったはずだ。祖国を裏切るという感覚と、良心に従うという感覚との間で、彼女は何度も引き裂かれていたに違いない。それでも彼女は、最後まで、自分の選んだ道を後悔している素振りを見せなかった。その強さこそが、オルコットが彼女に惹かれた、最初の理由だったのかもしれない。
窓の外、灰域の暗闇の向こうに、開戦後の戦火が、まだ絶えることなく続いていた。遠くに見える閃光は、どこかの艦隊が、今もなお戦い続けている証だった。この広大な宇宙の中で、無数の命が、今この瞬間にも失われている。セシルの死は、その中の、たった一つに過ぎなかった。
オルコットは、ふと、ドーベル少将から聞かされた言葉を思い出していた。戦争とは、個々の悲しみを積み上げた総量に、名前をつけただけのものだ、と。あの時は、ただの比喩だと聞き流していた。だが今、その言葉の重みが、初めて実感として腹の底に落ちてきた。この一年で失った乗員の数、そして今日失ったセシルの命――それらすべてが、遠い未来の歴史書には、恐らく数行の記述としてしか残らないのだろう。それでも、彼はこの手で、一人一人の名前を、記録し続けると決めていた。
セシルの死は、この巨大な戦争の中では、一人の犠牲者に過ぎなかった。統計上の数字としては、恐らく報告書の片隅に、小さく記載されるだけだろう。今日の戦闘だけでも、《薄明》は乗員三名を失い、負傷者は十二名に上っていた。艦の修理には、恐らく数週間、数百万単位の費用がかかるだろう。それらの数字の中に、セシルの名前もまた、いずれ埋もれていくのかもしれない。だが、オルコットにとって、それは決して、数字の一つには収まらないものだった。彼女の声、彼女の笑み、彼女が握った手の温度――そのすべてが、彼の記憶の中に、消えることなく刻まれていくのだろう。
端末に残された彼女の技術メモの最後には、日付だけが記され、続きが書かれることのなかった一文があった。「――この戦争が終わったら」という書き出しだけを残し、その先は、白紙のままだった。オルコットは、その空白を、長い間、見つめ続けていた。彼女がそこに何を続けようとしていたのか、もう永遠にわからない。それでも、その空白の余白にこそ、彼女が抱いていた、まだ言葉にならない未来への願いが、確かに息づいているように感じられた。
彼は、写真を丁寧に袋へと戻し、しばらくの間、艦長室の椅子に座ったまま、動かなかった。天井の照明が、規則的にわずかな唸りを立てている。艦は今、灰域の暗闇の中を、静かに漂うように進んでいた。窓の外の暗闇を見つめながら、彼は、これから自分が背負っていくべきものの重さを、静かに測っていた。
やがて、彼は端末を開き、明日の修理計画と、戦死者の記録作成に取り掛かった。悲しみに沈んでいる時間は、艦長という立場には許されていない。それでも、その作業を進める指先は、いつもよりずっと重く、そして冷たかった。
(第94話へ続く)