「――艦長、まだ戦闘中です!」
ダーナの制止が、背後で飛んだ。だが、オルコットの足は止まらなかった。艦長席を離れることが、戦術的にどれほどの危険を伴うか、彼自身、誰よりもよく理解していた。艦長不在の間、指揮系統の判断は副長に委ねられる。それは規定通りの手順であり、非難されるべきことではない。だが、その規定を頭で理解していることと、実際にこの足を止められることとは、まったく別の話だった。それでも、体が勝手に動いていた。理屈ではなかった。
これまでの人生で、彼は幾度となく、感情よりも規律を優先する道を選んできた。艦長という職務に就いてからは、なおのことだった。だが今、彼の中で、艦長としての自分と、一人の人間としての自分とが、初めて真っ向からぶつかり合っていた。そして、その勝負は、考えるまでもなく、一瞬で決していた。
通路は、非常灯の赤い光だけに照らされ、天井からは配管の破片が垂れ下がっていた。足元には、割れた計器盤のガラスが散らばり、踏むたびに小さな音を立てた。オルコットは、それらを蹴散らすようにして走った。息が上がる。心臓が、耳の奥で激しく脈打っている。
すれ違う損傷制御班の乗員たちが、消火器を抱え、あるいは負傷者を担いで走っていく。誰もが、艦長が持ち場を離れていることに気づいていたはずだが、それを咎める余裕は誰にもなかった。通路の壁には、亀裂が走り、その隙間から、外部の冷気がわずかに漏れ込んでいる。オルコットは、その冷たさを頬に感じながら、ただひたすらに走り続けた。頭の中では、セシルが最後にどんな顔をしていたか、彼女がこの艦に乗り込んできた最初の日のことが、脈絡もなく浮かんでは消えていった。
通信・電子戦区画へと至る隔壁は、内側から食い破られたように崩れていた。焼け焦げた配線が、蜘蛛の巣のように垂れ下がり、そこかしこで小さな火花が散っている。その向こう、煙と火花の中に、セシルが倒れていた。
「――セシル!」
オルコットは、瓦礫を押しのけ、彼女の元へ駆け寄った。膝をつき、彼女の肩に手をかける。彼女は、意識を保っていたが、腹部からの出血が激しかった。制服の生地が、既に黒く染まっている。オルコットは、その色を見た瞬間、喉の奥が締め付けられるのを感じた。戦場で、この手の傷を何度も見てきた。だからこそ、その深刻さが、嫌でもわかってしまった。
「――しっかりしろ、今、医務班を」
震える声で、それだけを言った。彼の手は、既に無線機へと伸びていた。指先が震え、うまくボタンを押せない。こんな単純な動作すら満足にできない自分に、彼は苛立ちを覚えた。無線機に手を伸ばそうとする彼を、セシルの弱々しい声が止めた。
「――グレイ」
セシルの声は、かすれていたが、はっきりとしていた。
「――暗号パターン、解析できました。……端末に、送信済みです」
「そんなことより」
オルコットは、彼女の言葉を遮ろうとした。だが、セシルは、小さく首を振った。
「聞いてください」
セシルは、震える手で、オルコットの手を握った。その手のひらは、驚くほど冷たかった。ほんの数時間前まで、彼女と共に作戦図を見ながら、この戦闘の展開を検討していた。その時の彼女の手は、まだ温かかったはずだった。
「――私の犠牲を、無駄にしないでください。……解析データで、無人艦の弱点を突けます」
その言葉に、オルコットは何も言い返せなかった。犠牲、という単語が、彼女の口から出たことが、信じられなかった。まだ何も終わっていない。彼女は生きている。そう自分に言い聞かせようとしたが、彼女の顔色は、既に紙のように白くなっていた。
「――馬鹿を言うな」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど掠れていた。
「お前は、まだ何も終わらせていない。データを渡したら、それで満足するつもりか。……冗談じゃない」
セシルは、それに答える代わりに、ただ小さく笑った。その笑みの意味を、オルコットは考えたくなかった。まだ助かる。まだ間に合う。そう自分に言い聞かせながら、彼は無線機に向かって、医務班への緊急要請を怒鳴るように叫んだ。
戦闘の喧騒の中、医務班が駆けつけ、セシルを担架に乗せた。担架に横たわる彼女の姿は、思いのほか小さく見えた。だが、その傷の深さは、誰の目にも明らかだった。医務班員たちの表情が、それを何よりも雄弁に物語っていた。
「――艦橋に戻ってください、艦長」
医務班長が、悲痛な声で言った。彼もまた、これまでの戦闘で、何人もの乗員をこの手で見送ってきた男だった。その彼が浮かべる表情に、オルコットは、認めたくない現実を突きつけられた気がした。医務室の隅では、他の負傷者たちの手当てが、なおも続けられていた。誰もが、それぞれの持ち場で、目の前の命を救うために、必死に手を動かしていた。この戦場は、セシルだけの悲劇で成り立っているわけではないのだと、オルコットは、その光景を目の端で捉えながら、改めて思い知らされていた。
「――ここは任せてください」
オルコットは、一瞬、動けなかった。セシルの手を離すことが、まるで彼女を見捨てることのように感じられた。だが、艦全体を、そしてまだ戦い続ける乗員たちを守る責任が、彼の肩にはあった。艦長という立場は、個人の感情よりも先に、常にその責任を要求する。それを、彼はこれまでの人生で、嫌というほど学んできたはずだった。頭では理解していても、体はまだ、彼女の傍らから離れることを拒んでいた。それでも、彼はゆっくりと、彼女の手を担架の上へと戻した。
「――セシル、必ず戻る」
彼は、彼女の耳元で、それだけを約束した。
「――待っています」
彼女は、力ない笑みを浮かべた。その笑みは、いつもの彼女らしい、皮肉げでいて、どこか温かい笑みだった。オルコットは、その笑みを、目に焼き付けるようにして見つめた。担架が運ばれていく音、医務班員たちの慌ただしい足音が、通路の向こうへと遠ざかっていく。彼は、その場に立ち尽くしたまま、しばらくの間、自分の手のひらに残る、彼女の体温の記憶だけを、確かめるように握りしめていた。
オルコットは、艦長席へと戻った。通路を走る間、彼の頭の中では、様々な感情が渦を巻いていた。だが、艦橋の扉をくぐった瞬間、彼はそのすべてを、意志の力で押し殺した。今、彼が動揺すれば、艦は、乗員は、守れない。それだけは、絶対に許されなかった。
「――セシルが送った解析データ、無人艦の制御信号への新たな妨害パターンです。すぐに実装しろ!」
彼の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。だが、その内側では、まだ荒れ狂う感情が、静かに渦を巻き続けていた。乗員たちは、その声の裏にある異変に、誰も気づいていないようだった。それでいい、とオルコットは思った。今この瞬間だけは、艦長としての仮面を、絶対に外すわけにはいかなかった。
技術班が、瞬時にその解析データを妨害システムへと組み込んだ。新たな妨害パターンにより、残る無人艦の動きが、大きく乱れた。制御を失ったように蛇行し、味方艦との位置関係すら見誤るような、明らかな異常挙動だった。その隙を突き、《薄明》は、辛うじて連邦艦隊の包囲網を突破することに成功した。
「――突破口、確認!このまま第三象限へ抜けます!」
操舵手の叫びに、艦橋の空気がわずかに緩んだ。だが、オルコットの意識は、既に艦橋にはなかった。彼の思考は、医務室にいるであろうセシルの容態のことで、いっぱいだった。艦長席に座ったまま、彼は何度も、腕時計に視線を落とした。時間の進みが、これほどまでにもどかしく感じられたことは、これまでの人生で一度もなかった。
跳躍炉のチャージが完了した瞬間、艦は灰域の暗闇へと身を投げ出すようにして離脱した。周囲の砲撃音が、次第に遠ざかっていく。
だが、勝利の実感は、どこにもなかった。艦橋に安堵の空気が広がるはずのその瞬間、オルコットの胸には、ただ一つの不安だけが、重く沈んでいた。
跳躍炉のチャージが完了する、その僅かな待ち時間の間も、彼の意識は上の空だった。ダーナが何度か声をかけてきたが、彼はほとんど上の空で答えていた。艦が灰域の暗闇へと跳躍した瞬間、艦橋のあちこちから、安堵にも似た小さなため息が漏れた。だが、オルコットの胸には、その安堵を分かち合う余裕は、欠片も残っていなかった。
「――艦長、指揮を」
ダーナの言葉に、オルコットは、ようやく我に返ったように頷いた。
「――しばらく、任せる」
それだけを言い残し、彼は再び席を立った。今度は、誰も彼を止めなかった。
医務室へと続く通路を歩く間、彼の足取りは、来た時とは違い、どこか重たかった。悪い予感が、胸の奥で、次第に確信へと変わっていくのを感じていた。医務室の扉の前に立った時、中から漏れてくる沈黙の質が、既に何かを物語っていた。
医務室へ駆けつけたオルコットが見たのは、すでに、静かに目を閉じたセシルの姿だった。周囲では、医務班員たちが、うなだれたまま立ち尽くしていた。誰も、彼に声をかけることができなかった。オルコットは、その場に立ち尽くしたまま、しばらくの間、何も理解できずにいた。ただ、彼女の穏やかな寝顔のような表情だけが、視界いっぱいに広がっていた。
窓の外には、彼らが辛うじて逃れてきた戦場の光が、まだ遠くにちらついていた。だが、その光景は、もはやオルコットの目には、何も映していないのと同じだった。医務室の白い照明の下、セシルの表情は、驚くほど穏やかだった。まるで、長い任務をようやく終えて、眠りについただけのような、そんな穏やかさだった。だが、その静けさこそが、何よりも残酷な事実を、彼に突きつけていた。
(第93話へ続く)