警報の色が、赤から更に濃い赤へと変わった。《薄明》は、四方から迫る連邦艦隊の中、味方艦隊本隊から切り離された状態での戦闘を強いられていた。
灰域と呼ばれるこの境界宙域は、恒星の光もろくに届かない、灰色の塵と残骸が漂う場所だった。かつては、両国の商船が行き交う交易路の一つに過ぎなかった。だが、開戦から数ヶ月が経った今では、その名の通り、無数の艦の残骸が、静かに漂う墓標のような宙域へと姿を変えていた。オルコットは、艦橋の主モニターに広がるその灰色の闇を一瞥し、そこにまた新たな残骸が加わることになるのかもしれない、という思いを、意志の力だけで頭の隅へと押しやった。
護送ルートの誤認――いや、誤認ではなく、罠だったのだと、オルコットは今更ながらに理解していた。境界防衛艦隊の主力を灰域の反対側へ引きつけておいて、《薄明》を含む分遣隊だけを、あらかじめ計算された座標へと誘い込む。連邦軍保安局らしい、手間を惜しまない仕事だった。レーダー上には、十一隻分の光点が、扇状に展開しながら包囲網を絞り込んでいる。
艦橋の空気は、既に焦げた金属と汗の匂いで満ちていた。換気系はまだ生きているが、隔壁の向こうで焼けたケーブルの臭気が、絶えず流れ込んでくる。オルコットは、その臭いを吸い込むたびに、これが本物の戦争だということを、改めて思い知らされた気がした。数年前、辺境哨戒の巡回任務で小競り合いを経験した頃とは、もう何もかもが違う。あの頃の戦闘には、まだどこか儀礼めいた間合いがあった。今はもう、そんなものは欠片も残っていない。
「――右舷、駆逐艦2隻接近!主砲、こちらに指向!」
砲雷長の声が、艦橋の警報音に負けじと張り上げられる。
「回避運動!同時に反撃しろ!」
オルコットは短く命じた。声を荒げる必要はなかった。この艦の乗員たちは、もう何十回とこの手の窮地をくぐり抜けてきている。恐怖は誰の顔にもあったが、それは動きを鈍らせる恐怖ではなく、集中を研ぎ澄ませる恐怖だった。
艦体が、至近弾の衝撃で激しく揺れた。天井のパイプから、白い蒸気が漏れ出し、床を這うように流れていく。オルコットは、艦長席の肘掛けを握りしめ、次々と迫る危機を捌き続けた。頭の中では、常に三手先の盤面を組み立てている。どの区画が次に崩れるか、どの角度からの砲撃が一番危険か、そして――どこまでなら、この艦は耐えられるか。
「――無人艦2隻、側面から回り込んでいます!」
観測員の声に、オルコットの喉が一瞬詰まった。無人艦。実戦配備が始まってまだ日が浅いその兵器は、乗員の命という制約を持たない分、通常艦よりも遥かに無謀な機動を取れる。恐怖という抑止力を持たない敵。それが、これほどまでに厄介なものだとは、開戦前には誰も本当の意味で理解していなかった。
オルコットは、レーダー画面に映るその二つの光点を見つめながら、苦い記憶を思い出さずにはいられなかった。数年前、彼が偶然目撃した、連邦の自律核実弾試験の巻き添え事故。あの日、彼は瓦礫の下から運び出される民間人の遺体を、ただ黙って見ていることしかできなかった。あの光景があったからこそ、彼は今、この艦の艦長席に座っている。だが、皮肉なことに、あの事故を止めるために踏み出した一歩の果てに、こうして自律無人艦そのものと戦うことになるとは、当時の彼には想像もできなかった。歴史というものは、いつも、思ってもみない場所へ人を連れていく。
「セシル、対策は」
オルコットは、通信卓の傍らに立つセシルへ、視線だけを向けて尋ねた。技術顧問としてこの艦に乗り込んで以来、彼女は何度もこの手の局面を、データと知恵だけで切り抜けてきた。
「――やります」
セシルの返事は短かったが、その声には迷いがなかった。彼女は通信卓に取り付き、以前と同じ手順で、無人艦の制御信号への妨害を試みた。指先が、端末の上を滑るように動く。だが、連邦側も、前回の戦闘で妨害を受けた教訓を、そのままにはしていなかった。
「――駄目です、暗号化パターンが変更されています!以前の妨害手法が効きません!」
セシルの声に、初めて焦りの色が滲んだ。オルコットは、その声だけで、事態の深刻さを悟った。彼女がこの艦に技術顧問として乗り込んでから、もう一年近くが経つ。祖国を離れ、かつての同僚たちを敵に回すという決断をした彼女にとって、この戦いは、単なる任務以上の意味を持っているはずだった。彼女は、決して感情を表に出す方ではなかったが、その指先の動きが、今日はいつもよりわずかに速いことに、オルコットは気づいていた。
「くそ」
低く吐き捨てる。悪態など普段は口にしない性分だったが、今この瞬間ばかりは、抑えきれなかった。
「時間があれば、新しいパターンを解析できるかもしれません!」
セシルが、端末を睨みつけたまま叫んだ。
「時間を作る!全弾撃ち尽くす覚悟でいけ!」
オルコットは、砲雷長へ向けて叫び返した。艦の残弾は、既に半分を切っている。だが、ここで出し惜しみをして艦ごと失えば、意味がない。《薄明》は、残された全火力を、迫り来る無人艦への迎撃に集中させた。主砲の発射音が、間断なく艦全体を震わせる。だが、二隻同時の相手は、さすがに厳しかった。一隻を押し留めれば、もう一隻が死角から距離を詰めてくる。
この一戦にかかった弾薬と装備の損耗だけでも、後日の報告書には、恐らく数百万単位の金額が並ぶことになるだろう。だが、今この瞬間、オルコットの頭にあるのは、費用のことではなかった。生き残ること。それだけだった。乗員百二十名余りの命と、セシルが積み上げてきたデータ、そして鍵を巡るこれまでの犠牲――そのすべてが、この数分間の攻防にかかっている。
砲雷長の額に、汗が幾筋も伝っていた。彼もまた、この艦に乗り込んで何年にもなる古参の乗員だった。その彼の声にすら、隠しきれない緊張が滲んでいることに、オルコットは気づいていた。だが、それを指摘する余裕は、今の彼にはなかった。
「――外殻損傷、深刻です!機関出力も低下しています!」
機関長からの報告に、オルコットは奥歯を噛みしめた。短距離跳躍炉のチャージには、まだ数分を要する。この状況で跳躍による離脱を選べば、チャージの間、艦は完全な無防備状態に晒される。今は、その賭けに出られる余裕すらなかった。
「持ちこたえろ!」
命じながらも、頭の片隅では、既に最悪の想定を組み立て始めていた。艦を失うことになった場合、何を優先して退避させるか。乗員の数、セシルが持つデータの価値、そして――この艦そのものが背負っている、鍵を巡る任務の連続性。
艦橋の隅で、副長のダーナが、損傷制御盤に張り付いたまま、次々と入る報告を捌いていた。彼女の声には、疲労の色が濃く滲んでいたが、それでも指示は的確だった。オルコットは、ちらりとその横顔を見た。この艦に乗り込んで以来、彼女がどれほどの修羅場を共にくぐり抜けてきたか、数え切れないほどだった。だが、今日という日が、これまでのどの戦闘よりも過酷なものになる予感を、オルコットは拭い去ることができなかった。それは、単なる勘ではなく、この十数分の戦闘の展開そのものが語っている、動かしがたい事実だった。
その時、無人艦の一隻が、これまでにない予測不能な機動を見せた。加速し、減速し、そしてまっすぐに《薄明》へと向かってくる、自爆特攻とも取れる進路変更だった。
「――突っ込んできます!」
観測員の悲鳴に近い声が響く。
「――回避!」
オルコットは、咄嗟に艦を大きく振るよう命じた。だが、慣性という物理法則は、意志の力だけではどうにもならない。完全な回避は間に合わなかった。
無人艦は、《薄明》の艦橋に程近い、通信・電子戦区画へと直撃した。
爆発の衝撃が、艦全体を激しく揺るがした。艦橋の照明が明滅し、床が斜めに傾ぐ。オルコットは、肘掛けにしがみつきながら、それでも意識だけは失わなかった。
「――被害報告!」
彼の声は、自分でも驚くほど平静だった。だが、その平静さの奥には、既に予感めいた不安が渦巻いていた。
「――通信・電子戦区画、直撃!……セシル技術顧問、そこにいました!」
その報告が艦橋に響いた瞬間、オルコットの血の気が、一瞬にして引いた。周囲の音が、遠のいたように感じられた。砲撃音も、警報も、乗員たちの叫び声も、すべてが薄い膜の向こうから聞こえてくるようだった。
数秒間、彼の思考は空白になった。艦長として、次に発すべき言葉はわかっている。被害状況の詳細確認。負傷者の救助手配。防御区画の再編成。だが、その手順のどれもが、今は途方もなく遠いものに感じられた。頭の奥で、誰かが冷静に囁いていた――今、動揺すれば、艦そのものが沈む、と。オルコットは、その声に従って、辛うじて自分を立て直した。
彼は、艦長席の肘掛けを、痛みを感じるほどに強く握りしめた。まだ戦闘は終わっていない。艦を、乗員を守るという責務は、依然として彼の肩の上にある。だが、その責務の重さと同じだけの重さで、彼の胸には、言葉にならない予感が広がっていった。
艦橋のモニターには、なおも周囲を包囲する敵艦の光点が、じわじわとその輪を狭めながら映し出されていた。爆発の余韻で、天井の照明の半分が落ち、非常灯の赤い光だけが、乗員たちの顔を下から照らしている。誰も、まだ何も言わなかった。ただ、次の報告を待つ、張り詰めた沈黙だけが、艦橋の空気を満たしていた。オルコットは、その沈黙の中で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえることに気づいていた。
「――報告を続けろ」
彼は、震えそうになる声を抑え、それだけを命じた。艦長が動揺すれば、艦全体が動揺する。それだけは、絶対に避けなければならなかった。だが、内心では、セシルの名前が、幾度も幾度も、頭の中で反響していた。
(第92話へ続く)