均衡状態は、長くは続かなかった。連邦軍が、戦力を立て直し、再び灰域への攻勢を強めてきたのだ。休息とも呼べないほどの短い時間の後、《薄明》は再び戦闘配置についていた。
わずか半日ほどの静寂が、まるで嘘だったかのようだった。艦内の乗組員たちは、疲労の色を隠しきれないまま、それでも黙々と自分の持ち場へと戻っていく。オルコットもまた、浅い眠りから叩き起こされ、艦長席に腰を下ろしたばかりだった。体の芯に残る疲労が、これから始まる戦闘への不安を、いっそう際立たせていた。
警報の音は、まだ耳の奥に居座っていた。オルコットは、こめかみを軽く押さえながら、意識を戦闘態勢へと切り替えようとした。眠りの浅さが、かえって体の輪郭を曖昧にしているような、奇妙な感覚があった。
警報が鳴り響いた瞬間、彼は反射的に身を起こしていた。眠りに落ちてから、まだ数時間しか経っていない。それでも、体は、艦長としての役割を、無意識のうちに優先させていた。目をこすりながら艦橋へ向かう足取りは重かったが、意識だけは、すでに戦闘態勢へと切り替わっていた。
「――艦長、今回の攻勢、様子がおかしいです」
ダーナが、緊張した面持ちで報告した。彼女の声には、これまでの戦闘報告とは異なる、不穏な響きがあった。
「連邦艦隊の一部、明らかに《薄明》を目標として動いています」
オルコットの背筋に、冷たいものが走った。艦隊戦の混沌の中で、一隻の艦を名指しで狙うということは、それだけの理由と、それだけの戦力を割く価値があると、相手が判断しているということだ。
「――確かなのか。誤認識ではなく」
「間違いありません。他の艦を素通りしてまで、こちらへ進路を変えています。偶然の範囲を、明らかに超えています」
ダーナの声は、努めて冷静さを保っていたが、その奥に、隠しきれない緊張が滲んでいた。オルコットは、モニターに映る敵艦の航跡を、食い入るように見つめた。それは、確かに、他の目標を無視して、まっすぐこちらへと向かってくる軌跡だった。
「――なぜ、俺たちだけを」
彼は、モニターに映る敵艦の動きを見つめながら、そう呟いた。これまでの局地戦とは違う、明確な意図を持った包囲網が、じわじわと形成されつつあった。
セシルの顔が、青ざめた。
「――私、かもしれません」
「セシル」
オルコットが、彼女の方を振り向いた。その表情には、覚悟と、それでも消えない不安が入り混じっていた。
「特務局にとって、私は今も『裏切りの象徴』です。ヴィスは、ノクターンで目的を果たせなかった。今度は、開戦という混乱に乗じて、決着をつけるつもりかもしれません」
彼女の声は、震えていた。だが、その震えの奥には、これまで積み重ねてきた覚悟が、確かに宿っていた。
「――ノクターンで、ヴィスは、あの重火器で聖堂ごと私たちを消し去ろうとしました。あの男は、目的を果たせなかったことを、決して忘れる性格ではありません。開戦という混乱は、彼にとって、絶好の機会でもあるはずです」
「だが、艦隊戦の最中に、そこまで個人的な決着を優先するものか」
「特務局にとっても、私の存在は都合が悪いはずです。倫理制限の設計に関わった人間が、同盟側に亡命同然の形で協力している――これほど、隠したい事実はありません」
セシルの分析には、これまでの経験に裏打ちされた説得力があった。オルコットは、その言葉を否定することができなかった。
「――お前は、いつも冷静に、状況を分析する。だが、今回だけは、自分を犠牲にする方向に、考えを進めてほしくない」
「――分かっています。でも、可能性としては、考えておくべきです」
セシルの声には、揺るぎない意志があった。オルコットは、彼女のその強さに、これまで何度も助けられてきた。だが、今は、その強さが、彼女自身を危険な方向へと導きかねないことに、彼は強い不安を覚えていた。
ラスクはすでに失脚し、後ろ盾を失った《薄明》は、以前よりも明確に、狙われやすい立場に置かれていた。オルコットは、その事実を、苦々しく噛みしめた。ラスクという後ろ盾がある間は、まだ守られていた部分もあったのかもしれない。だが今、その盾はもう存在しない。
艦橋の表示灯が、じわじわと迫る敵艦の数を示すたびに、赤い光の点滅が増えていく。オルコットは、その光の連なりを見つめながら、自分たちがすでに、逃げ場のない檻の中に追い込まれつつあることを、はっきりと自覚した。
「――回避できるか」
「厳しいです。すでに、複数の艦から捕捉されています」
ダーナの報告に、オルコットは表情を険しくした。艦の周囲を示す戦況図には、じわじわと迫る敵艦の光点が、包囲網を狭めるように配置されていくのが見えた。まるで、獲物を追い詰める猟犬のような、迷いのない動きだった。
「――本隊との距離は」
「すでに、十分離されています。すぐに合流するのは、困難です」
ダーナの報告に、オルコットは奥歯を噛みしめた。この状況は、偶発的なものではない。誰かが、意図的に《薄明》を本隊から切り離そうとしている。その誰かの正体を、彼は、すでに一人だけ思い浮かべていた。
《薄明》は、境界防衛艦隊本隊から切り離される形で、連邦艦隊の一部――駆逐艦4隻、そして小型の無人艦2隻からの集中攻撃に晒され始めた。艦全体が、これまでとは違う種類の緊張に包まれていく。
無人艦の存在が、状況をさらに厄介なものにしていた。開戦初日に対峙した無人艦の動きが、脳裏によぎる。あの予測不能な機動を、駆逐艦4隻の連携と組み合わせられれば、通常の艦隊戦とは比較にならない脅威になる。オルコットは、モニターに映るその編成を見つめながら、これが単なる偶発的な追撃ではなく、周到に準備された罠であることを、はっきりと悟った。
「――くそ、明らかに数で押し切る気だ!」
砲雷長の怒声にも似た報告が、艦橋に響いた。
「本隊に応援を要請しろ!」
オルコットの指示に、通信士が即座に反応した。だが、その回線の向こうから返ってきた答えは、彼らが望んでいたものではなかった。
「応答があります。ただし、本隊も激戦中で、すぐには回せないとのことです」
オルコットは、奥歯を噛みしめた。孤立無援の状況で、圧倒的な数の敵と対峙しなければならない。これまで幾度となく潜り抜けてきた修羅場の中でも、最も厳しい状況の一つだった。
「――機関長、跳躍炉のチャージは」
「まだ三割程度です。今、跳躍による離脱は不可能です」
その報告に、オルコットは短く舌打ちした。離脱という選択肢すら、今は封じられている。残された道は、この場に留まり、正面から敵の攻撃を凌ぎきることだけだった。艦橋の空気が、これまでにない密度で張り詰めていくのを、彼は肌で感じ取っていた。
「――全員、持ち場を離れるな。俺たちで、なんとかする」
彼の声には、乗組員たちを鼓舞するための、意識的な強さが込められていた。だが、内心では、この状況をどう打開すればいいのか、彼自身、答えを持ち合わせていなかった。ノクターンでの死闘、開戦初日の激戦――これまで、幾度となく絶望的な局面を乗り越えてきた。だが、今回ばかりは、その経験則すら、通用するかどうか分からなかった。
セシルが、静かに、しかし覚悟を込めて言った。
「――私が、囮になります。私の存在が狙われているなら、それを逆に利用すればいい」
「駄目だ」
オルコットは、即座に否定した。彼女を危険に晒すという選択肢を、彼は考えることすらしたくなかった。だが、セシルの目に宿る決意は、揺らいでいなかった。
「――グレイ、これは、私が選ぶべきことです」
その一言に、オルコットは言葉を失った。彼女の目には、これまでの葛藤の末にたどり着いた、静かな覚悟が浮かんでいた。祖国から裏切り者と呼ばれ、それでも自分の信じる道を選び続けてきた彼女が、今、また一つの決断をしようとしている。
艦橋の乗組員たちは、二人のやり取りを、固唾を呑んで見守っていた。誰もが、セシルがこれまでこの艦にもたらしてきた貢献を知っている。そして同時に、彼女が背負ってきた立場の危うさも、薄々感じ取っていた。この局面で、艦長がどのような決断を下すのか――それは、この艦の在り方そのものを、これから先も左右することになるだろう。
「――お前を囮になんてさせない。俺が艦長である限り、この艦の誰も、そんな形で犠牲にはしない」
「グレイ、それでは、乗組員全員が危険に晒されます。私一人の問題ではないんです」
セシルの声には、譲らない強さがあった。オルコットは、彼女の目をじっと見つめ返した。この短いやり取りの中に、これまで二人が積み重ねてきた信頼と、それでも埋まらない立場の違いが、同時に凝縮されているようだった。
「――時間がありません。艦長、決断を」
ダーナの声が、二人の間に割って入った。敵艦の接近は、刻一刻と迫っていた。
オルコットは、一瞬だけ目を閉じた。これまで積み重ねてきた戦いの記憶――ノクターンの氷の回廊、開戦初日の激戦、レティシアでの地上戦――そのすべてが、今、この一瞬に凝縮されていくようだった。彼は、静かに目を開けると、艦橋の全員を見渡した。
「――セシルを囮になどしない。俺たちは、俺たちのやり方で、この包囲を突破する」
その声には、迷いのない強さがあった。乗組員たちの表情に、わずかながら、光が戻るのを、オルコットは感じ取った。
艦橋の誰もが、オルコットとセシルのやり取りを見守りながら、次の指示を待っていた。エンジンの唸りだけが、緊張に満ちた沈黙の中で、絶え間なく響き続けていた。
灰域の暗闇の中、《薄明》を巡る、最も過酷な戦いが始まろうとしていた。
(第91話へ続く)