三日間にわたる激戦の末、灰域全域での戦線は、ようやく一時的な均衡状態に達した。両軍とも、初日の消耗が大きすぎたため、いったん戦力の立て直しを図る必要に迫られていた。
灰域の各所には、両軍の艦艇が、疲弊しきった様子で漂っていた。損傷した艦体を仮補修する作業員たちの声が、無線越しに絶え間なく飛び交っている。誰の顔にも、深い疲労の色が刻まれていた。だが、それでも、戦闘そのものが終わったわけではない。均衡とは、あくまで一時的な休息に過ぎなかった。
艦橋の照明は、これまでの戦闘態勢の赤色から、通常の白色光へと戻されていた。だが、その光の下に照らされる乗組員たちの顔は、どれも土気色に近く、休息とは名ばかりの疲弊が滲んでいた。
《薄明》自体も、艦体のあちこちに応急補修の跡が残っていた。機関長からは、本格的な整備には、ハイド・ステーションへの帰投が必要だという報告が上がっていたが、それすら、今は叶わぬ贅沢だった。オルコットは、その報告に頷きながらも、当面はこの応急処置のまま、戦線に留まり続けるしかないことを、自分自身に言い聞かせていた。
「――双方とも、疲弊しきっている、ということか」
オルコットは、束の間の休息の中、被害状況の全体像を確認していた。艦橋の照明は、通常運用に戻され、これまでの激戦が嘘のような静けさが、艦内に漂っていた。だが、その静けさは、決して安堵をもたらすものではなかった。
この三日間、《薄明》は幾度となく戦闘配置につき、離脱し、また戦闘配置につくことを繰り返してきた。乗組員たちの疲労は、限界を超えつつあった。オルコット自身、まともに眠った記憶がなかった。艦長室に戻る度、椅子に腰掛けたまま、意識を失うように眠りに落ち、数時間後には再び戦闘配置の警報で叩き起こされる――その繰り返しだった。
食堂に立ち寄る余裕すらなく、乗組員たちは、持ち場で簡易食を口にするだけの日々を送っていた。誰もが、疲労の色を隠せずにいたが、それでも、誰一人として弱音を吐かなかった。オルコットは、そんな彼らの姿に、言葉にならない敬意と、同時に、これ以上の負担を強いることへの申し訳なさを感じていた。
通路ですれ違う乗組員たちの目には、以前のような張りが失われつつあった。それでも、誰もが黙って敬礼を返し、それぞれの持ち場へと戻っていく。その静かな規律の中に、オルコットは、この艦という共同体が、まだ崩れていないことの証を見出していた。
「境界防衛艦隊、艦艇の三割近くが撃沈もしくは大破。戦死者は、地上部隊も含めて、推定4,000名を超えています」
ダーナの声には、疲労と悲痛さが滲んでいた。彼女もまた、この三日間、ほとんど休息を取らずに指揮を執り続けてきた。その目の下には、深い隈が刻まれていた。
「――レティシアの防衛旅団も、この数字に含まれているのか」
「はい。ヴィータ大佐の部隊、マグダ隊長の残り火隊、双方の犠牲者も、すべて含まれています」
その報告に、オルコットは、静かに目を閉じた。これまで顔を合わせてきた者たちの名前が、一つ、また一つと、この巨大な数字の中に埋もれていく。彼らの死を、単なる統計として処理することだけは、絶対にしたくなかった。だが、この規模の犠牲を前にしては、一人一人の名前を追うことすら、次第に困難になりつつあった。
「連邦側の被害は」
「詳細は不明ですが、同程度、あるいはそれ以上と推測されます」
数字の規模に、艦橋の誰もが言葉を失っていた。開戦からわずか三日で、これほどの犠牲が積み重なっている。この戦争が、これから何年続くのか、誰にも予測できなかった。オルコットは、その数字の重さを、頭の中で咀嚼しようとしたが、うまく実感が伴わなかった。人間一人一人の死という事実が、数字という無機質な形に変換された瞬間、その重みの一部が、どこかへ抜け落ちてしまうような感覚があった。
艦橋の空調の音だけが、やけに大きく耳に響いた。誰も、しばらくの間、口を開こうとしなかった。その沈黙こそが、彼らなりの弔いの形なのかもしれない、とオルコットは思った。
「――4,000名、か」
オルコットは、その数字を、口の中で小さく繰り返した。ノクターンで失われた14名の名前を、彼はまだ、はっきりと覚えている。だが、4,000という数字を前にしては、その一人一人の顔を思い描くことすら、もはや不可能だった。それでも、この数字の裏側には、間違いなく、4,000通りの人生が、4,000通りの終わり方をしたのだという事実がある。彼は、そのことだけは、決して忘れまいと心に刻んだ。
セシルが、オルコットの隣に静かに座った。彼女の顔にも、この三日間の疲労が色濃く滲んでいた。それでも、彼女の目には、まだ確かな光が宿っていた。電子戦支援という役割を通じて、彼女はこの三日間、幾度も《薄明》を、そして境界防衛艦隊全体を、危機から救ってきた。
「――少し、休んだ方がいい。お前も、限界だろう」
「艦長こそ。誰よりも、休んでいないのはあなたです」
セシルの指摘に、オルコットは苦笑を浮かべた。互いに、相手の身を案じる余裕すら失いかけているのに、それでも気遣いだけは忘れない――そのやり取りが、束の間、張り詰めた空気を和らげた。
「――ダーナに任せて、少しだけ目を閉じるとするか」
「それがいいです。今のうちに」
セシルは、そう言うと、自らも椅子に深く腰掛け、目を閉じた。艦橋の喧騒は、まだ完全には収まっていなかったが、それでも、これまでの三日間に比べれば、はるかに穏やかな時間だった。
「――連邦の内部情報によれば、この戦争は、短期決戦にはならないだろう、という見方が強いようです」
「長期戦、ということか」
「はい。双方とも、決定的な戦力差がない以上、消耗戦になる可能性が高いと」
オルコットは、深く息を吐いた。長期戦という言葉の重みが、彼の肩に、じわりとのしかかってきた。これまでの三日間ですら、これほどの犠牲を払っている。それが何年も続くとすれば、この先、いったいどれほどの命が失われることになるのか。
「――連邦上層部は、この戦争を、どう見ているんだ」
「詳しいことは分かりません。ただ、自律無人艦の配備計画を、さらに加速させるという方針だけは、決まっているようです。人的損耗を抑えるためにも、機械の比率を増やす、と」
セシルの声には、苦いものが滲んでいた。人の命を守るための機械化――その大義名分の裏側に、どれほどの隠された思惑があるのか、彼女自身、身をもって知っていた。
「――鍵を託した意味を、改めて噛みしめる時が来たな」
「どういう意味ですか」
「この戦争が長引けば長引くほど、自律無人艦の配備は加速するだろう。いつか、暴走した自律核を止める必要が出てくる日が来る。その時のために、鍵は存在する」
セシルは、静かに頷いた。彼女の目には、複雑な感情が浮かんでいた。祖国が推し進める兵器開発に、これから先も、抗い続けなければならない――その覚悟の重さを、あらためて噛みしめているようだった。
「――皮肉なものです。私が設計に携わった倫理制限の技術が、いずれ、その暴走を止めるための鍵と結びつく日が来るかもしれない。あの頃は、そんなことになるとは、想像もしていませんでした」
窓の外に浮かぶ艦艇の残骸を見つめながら、セシルは、遠い目をしていた。技術士官として育てられた日々、倫理制限の設計に打ち込んだ日々――その全てが、今、この戦争という結末へと繋がっている。彼女にとって、それは、決して単純に整理できる感情ではなかった。
「誰も、想像していなかったさ。俺も、ラスクも、グラン院長も。それでも、俺たちは今、それぞれの持ち場で、できることをするしかない」
オルコットの言葉に、セシルは小さく息を吐いた。疲労の滲むその表情の奥に、かすかな安堵が浮かんでいるのを、彼は見て取った。
「――その日が来るまで、鎮魂会が鍵を守り抜いてくれることを、祈るしかありませんね」
「ああ」
窓の外、灰域には、開戦初日の激戦の爪痕――撃破された艦の残骸が、無数に漂っていた。それはまるで、これから始まる長い戦争の、最初の墓標のようだった。
回収作業を行う小型艇が、残骸の間を縫うように行き来している様子が、モニターの端に映し出されていた。乗員の遺体を収容し、記録を残す――それもまた、この戦争が続く限り、繰り返されることになる作業だった。オルコットは、その光景を見つめながら、これまでに失われた、そしてこれから失われるであろう命の数を、静かに思った。
小型艇の放つ探照灯の光が、残骸の表面を撫でるように移動していくのを、オルコットはしばらく見つめ続けた。その光の先に、これまで言葉を交わしたことのある誰かの顔があるかもしれない。そう思うと、彼はモニターから目を逸らすことができなかった。
「――俺たちにできるのは、目の前の一つ一つを、大切に扱うことだけだ。数字に埋もれさせない、ということだけは、守り続けたい」
セシルは、その言葉に、静かに頷いた。窓の外に広がる残骸の海は、しばらくの間、二人の視界から離れなかった。
「――この均衡も、長くは続かないでしょうね」
「ああ。両軍とも、戦力を立て直せば、また攻勢に転じてくるはずだ」
オルコットは、そう答えながら、次に来るであろう戦闘の規模を、頭の中で見積もっていた。この束の間の静けさが、次の激戦への準備期間に過ぎないことは、誰の目にも明らかだった。彼は、艦長席に深く座り直し、目を閉じた。次の警報が鳴るまでの、わずかな時間だけでも、体を休めておかなければならなかった。
(第90話へ続く)