セシルの死から一週間後、《薄明》は、修理を終え、再び境界防衛艦隊の前線へと復帰した。損傷した外殻の張り替え、通信・電子戦区画の再建――それらの作業は、ドックの技術者たちの手によって、驚くほどの速さで進められた。だが、その速さとは裏腹に、艦内に流れる空気は、以前とは明らかに違うものになっていた。

「――艦長、本当に戻られるんですか」

ダーナが、心配そうに尋ねた。修理を終えたばかりの艦橋には、まだどこか、消毒液に似た新しい部材の匂いが漂っていた。彼女の声には、単なる確認以上の、深い気遣いが滲んでいた。この一週間、彼女は、艦長が誰よりも寡黙になり、必要最低限の言葉しか発しなくなっていることに、気づいていないはずがなかった。

「他にどうしろと言うんだ」

オルコットは、静かに答えた。窓の外には、修理ドックの無機質な壁面が広がっている。その向こうに、灰域の暗闇が、静かに待ち構えていた。

「悲しみに沈んでいる時間は、今の俺たちには許されていない。この戦争は、始まったばかりだ」

その言葉は、自分自身に言い聞かせるためのものでもあった。この一週間、彼は幾度となく、艦長室の窓から灰域を見つめ、セシルとの日々を思い返してきた。悲しみは、消えることはなかった。だが、その悲しみに沈み続けることが、彼女の望んだことではないということも、彼にはわかっていた。

夜、一人になった時だけ、彼はその重みを、静かに解き放つことを自分に許していた。眠れない夜が続き、艦長室の椅子に座ったまま、朝を迎えることも一度や二度ではなかった。だが、朝が来れば、彼は必ず制服を整え、艦長としての顔を取り戻した。それは、逃避ではなく、彼なりの弔いの形だった。悲しみを表に出さないことが、彼女への裏切りだとは、彼はどうしても思えなかった。むしろ、彼女が託した想いを、確かな行動へと変えていくことこそが、今の自分にできる、唯一の応え方だと信じていた。

艦内には、以前とは違う、静かな決意のようなものが漂っていた。乗員たちは皆、セシルの死を悼みながらも、それぞれの持ち場で、任務を続けていった。誰かが涙を見せることは、もうなかった。だが、それぞれの表情の奥に、以前よりも一段深い、静かな覚悟が宿っているのを、オルコットは感じ取っていた。

通信・電子戦区画は、修理によって以前とほとんど変わらぬ姿を取り戻していた。だが、そこに配置された新しい端末の前に立つたび、乗員たちは、一瞬、動きを止めることがあった。そこにいたはずの人物が、もういないという事実を、体がまだ受け入れきれていないかのようだった。オルコットもまた、その区画の前を通るたびに、無意識のうちに足取りを緩めてしまう自分に気づいていた。だが、彼はその都度、意志の力で歩みを進めた。立ち止まり続けることは、許されなかった。

ドーベル少将――戦時体制への移行に伴い、境界防衛艦隊の副司令官へと昇格していた――が、オルコットを呼び出した。少将の執務室は、以前訪れた時よりも、格段に慌ただしい空気に満ちていた。壁一面の戦況図には、無数の駒が、灰域の各地に配置されている。

「――艦長、お前には、新たな役目を与えたい」

ドーベル少将は、いつもの淡々とした口調で切り出した。だが、その目には、以前にはなかった、ある種の緊張感が宿っていた。

「役目、ですか」

「セシル・マーロウが残した、連邦技術に関する分析データ。それを基に、対無人艦戦術の研究部門を立ち上げる。お前に、その指揮を執ってほしい」

その申し出は、オルコットにとって、予想外のものだった。だが、同時に、彼の中で、何かがすとんと腑に落ちる感覚もあった。彼女が命と引き換えに残したデータを、単発の戦術に使うだけでなく、体系立てて未来へと繋げていく――それは、彼女の死を無駄にしないための、一つの確かな手段だった。

少将の執務室の壁には、この一年で失われた艦の名が、静かに記された一覧表が掲げられていた。オルコットは、その一覧に目を走らせながら、この戦争の規模がどれほどのものになっているかを、改めて実感していた。

「――現場の艦長を、後方の研究部門に据えるのは、異例の人事だ」

ドーベル少将は、資料を指先で軽く叩きながら続けた。

「だが、お前は現場を離れるわけじゃない。《薄明》の指揮は、そのまま続けてもらう。研究部門の仕事は、艦の任務の合間に、遠隔でも進められるように整える。二足の草鞋を履かせることになるが、構わないか」

「――構いません」

オルコットは、即答した。むしろ、艦を離れずに済むということが、彼にとっては重要だった。乗員たちと共に戦い続けることこそが、彼にとっての本分であり、その本分を失ってまで、後方の役目に専念することは、彼の望むところではなかった。

オルコットは、しばらく考えた後、頷いた。窓の外に見える無数の駒が、これからも増え続けていくであろう戦線の広がりを、無言のうちに物語っていた。

「――お引き受けします」

壁の一覧表に記された艦名の中には、オルコットも見知った僚艦の名が、幾つも含まれていた。その一隻一隻が失われた経緯を、彼は、報告書を通じて知っている。だが、報告書の文字面だけでは、その喪失の重みを、正しく推し量ることはできない。

「彼女の死を、無駄にはしない。お前がそう考えているなら、これほど適した役目はないはずだ」

少将は、珍しく穏やかな声で言った。長年の軍務で鍛え上げられたその声に、今日ばかりは、人間らしい温かみが滲んでいるように、オルコットには感じられた。

「――この部門には、他にどれだけの人員が」

オルコットが尋ねると、少将は、資料の束をデスクの上に滑らせた。

「当面は、お前の艦の技術班を中心に十数名。徐々に拡大していく計画だ。予算は、既に本国の承認を得ている。この規模の予算がすぐに下りるということ自体、上層部が、この問題をどれほど深刻に捉えているかの証だ」

オルコットは、その資料に目を通しながら、セシルが遺したデータの価値の重さを、改めて実感していた。彼女が命を賭して守り抜いたものが、こうして形を変えて、これからの戦いを支えていくことになる。

資料の最後のページには、研究部門の暫定名称が記されていた。「対自律兵装研究室」。無機質な名前だったが、オルコットは、そこに、これから積み上げていくべき仕事の輪郭を見た気がした。この部門が成し遂げることになる成果の一つ一つが、いずれ、無人艦との戦いで失われずに済んだはずの命の数として、静かに積み重なっていくのだろう。

「――一つ、聞いてもいいですか」

オルコットは、資料を閉じながら、少将に尋ねた。

「連邦は、なぜ、これほどまでに無人艦の配備を急いでいるんでしょうか。人員の損耗を厭わないというだけでは、説明がつかない気がします」

ドーベル少将は、しばらく黙り込んだ後、静かに答えた。

「――損耗を厭わない、というのは半分正しい。だが、もう半分は、国家が生殺与奪の力を、他の誰にも渡したくないという意志だ。人間の兵士には、良心がある。命令に背くことも、逃げ出すこともある。だが、無人艦には、それがない。忠実に、ただ命令に従うだけの兵器を、国家は欲している。それが、どれほど危うい欲望か、お前も、セシル君も、よくわかっていたはずだ」

その言葉に、オルコットは、深く頷いた。だからこそ、正規管制鍵を、国家のいずれの手にも渡らない場所へ隠す必要があったのだ。その決断の正しさを、彼は改めて噛みしめていた。

その夜、オルコットは、鎮魂会へ向けた通信を送った。艦長室の狭い机に向かい、彼は何度も文面を書き直した末に、ようやく端末のキーを押した。

『セシルが残したデータの一部を、鎮魂会にも共有したい。将来、鍵が本当に必要とされる日のために』

グラン院長からの返信は、簡潔だった。だが、その簡潔さの中に、深い理解が込められているように、オルコットには感じられた。

『――感謝します。彼女の遺したものが、この鍵の役目を、より確かなものにしてくれるでしょう』

通信端末を閉じた後も、オルコットは、しばらくの間、その画面を見つめ続けていた。グラン院長の返信の簡潔さの奥に、彼は、多くの想いが込められていることを感じ取っていた。組織として鍵を守り続けることと、個人が遺したものを未来へ繋ぐこと、その二つが、静かに重なり合っていく様を、彼はこの短いやり取りの中に見出していた。

灰域の暗闇の向こうで、戦争は、なおも続いていた。無数の艦が、日々、この暗闇の中で命を散らしている。だが、その中で、失われた命の意味を、少しでも未来へと繋げようとする者たちの営みもまた、静かに続いていた。オルコットは、艦長室の窓から、その暗闇を見つめながら、自分がこれから歩むべき道の輪郭を、少しずつ、確かなものにしていった。

端末を閉じ、彼は椅子に深く腰を下ろした。デスクの隅には、セシルの遺品の中から取り出した、あの古い写真が、小さな額に収められて置かれていた。彼は、それを見るともなく見つめながら、これから始まる新しい任務のことを、静かに考え続けた。悲しみは、消えることはない。だが、その悲しみを抱えたまま、前へ進むこともまた、できるのだということを、彼はこの一週間で、少しずつ学びつつあった。

窓の外には、修理を終えたばかりの《薄明》の輪郭が、ドックの光を受けて、鈍く光っていた。明日には、この艦は再び、灰域の暗闇へと向けて出航する。オルコットは、その光を見つめながら、静かに、けれど確かな足取りで、次の一日へと向かう準備を始めていた。

(第96話へ続く)