連邦議会の動きを受け、同盟政府もまた、緊急の対応を迫られた。政府中枢では、連日、深夜まで会議が続いているという噂が、作戦本部にも伝わってきていた。
「――最後の外交努力として、緊急首脳会談を提案する」
同盟の首相府から、そのような声明が発表された。会談の場は、これまでと同じくヴェスタ港が選ばれた。中立地帯としての性格を持つヴェスタ港は、これまでも幾度か、両国の技術交流や非公式な折衝の舞台となってきた場所だった。だが今回の会談は、これまでのどの折衝とも、意味合いが違っていた。
「――今度こそ、最後の機会かもしれません」
ラスクが、緊張した面持ちで言った。彼の表情には、これまでの冷徹な合理主義者らしい落ち着きの裏に、隠しきれない焦燥が滲んでいた。
「この会談が決裂すれば、両国とも、後戻りのできない段階に入ります」
オルコットは、セシルとともに、会談に随行する形で再びヴェスタ港を訪れた。かつて二人が出会った場所が、今や、戦争回避の最後の砦になろうとしていた。港湾施設の外観は、三年前とほとんど変わっていなかった。だが、警備の密度は比較にならないほど増しており、あちこちに、同盟軍と連邦軍双方の警戒要員が、互いに距離を保ちながら配置されていた。
「――ここで、あなたと初めて言葉を交わしたんでしたね」
セシルが、係留区画の一角を見つめながら呟いた。
「技術交流会議の休憩時間、あなたが一人で外を眺めていた。俺は、ただの世間話のつもりで声をかけたんだが」
「あの時のあなたは、もっと素っ気なかったですよ」
「あなたも、もっと硬かった」
二人は、束の間、微かな笑みを交わした。だが、その笑みはすぐに、これから始まる会談の緊張感に飲み込まれていった。
控室で待つ間、オルコットはラスクから、これまでの外交交渉の経緯について、改めて説明を受けた。
「――今回の会談の下地は、実は三ヶ月前から水面下で準備されてきたものです。同盟側は、ハルシオン侵攻の賠償問題を棚上げにしてでも、まずは軍拡の一時停止で合意することを目指していました」
「連邦側の出方は」
「当初は、応じる姿勢を見せていました。ですが、ヴィスが特務局長に就任してからは、態度が急速に硬化しています。恐らく、彼が連邦首相代理に対して、強硬な立場を取るよう働きかけているものと思われます」
オルコットは、窓の外に広がるヴェスタ港の風景を眺めた。三年前、この場所で彼は、まだ政治の重さを実感しないまま、一人の技術士官との出会いを経験した。あの頃の自分は、これほどまでに国家の思惑が、個人の運命を左右する日が来るとは、想像もしていなかった。
会談は、同盟首相と連邦首相代理――連邦の元首は病床にあり、代理が出席していた――の間で行われた。オルコットたちは、直接その場に立ち会うことはできなかったが、控室で結果を待った。控室の壁越しに、時折、高まる声のようなものが微かに漏れ聞こえてきた。それが実際の会談の音なのか、単なる想像なのか、オルコットには判別がつかなかった。
控室の壁に掛けられた時計の針が、ゆっくりと時を刻んでいた。オルコットは、その音を数えるともなく数えながら、これまでの日々を振り返っていた。デルフォスの地下要塞での鍵の奪取、鎮魂会への引き渡しの試み、連邦の哨戒網をかいくぐる逃避行、そしてヴィスによる追跡と粛清――積み重ねてきた選択のひとつひとつが、この会談の結果次第で、まったく違う意味を持つことになる。もし会談が成立すれば、これまでの犠牲は、束の間の平和を勝ち取るための代償として、多少なりとも報われることになるだろう。だが、決裂すれば、それらの犠牲は、ただ戦争を先延ばしにしただけの、空しい足掻きになりかねない。
セシルは、控室の椅子に座ったまま、両手を膝の上できつく組んでいた。
「――怖いですか」
オルコットが尋ねると、セシルは、しばらく間を置いてから頷いた。
「はい。怖いです。この会談の結果次第で、多くの人の運命が決まる。その重さを思うと、息苦しくなります」
「俺も同じだ。艦長として、多くの人命を預かってきたつもりだったが、これほど大きな規模の話になると、自分の無力さを思い知らされる」
数時間後、会談の結果が伝えられた。ラスクが、疲労の色濃い顔で控室に入ってきた。
「――決裂しました」
ラスクの声には、覚悟していたはずの重さが滲んでいた。
「連邦側は、『技術士官拉致事件の犯人引き渡し』『ハルシオン侵攡の正当性』を主張し、同盟側はこれを完全に拒否。双方とも、一切の譲歩を見せませんでした」
オルコットは、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む感触が、彼をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。
「――セシルの引き渡しが、条件に入っていたのか」
「はい。連邦は、あなたがたを『裏切りの象徴』として、公開の場で裁くことに固執しています」
セシルの顔が、青ざめた。彼女の手が、無意識のうちに、自分の腕を強く握りしめているのが見えた。
「――私のせいで、交渉が」
「違う」
オルコットは、即座に否定した。
「これは、口実に過ぎない。連邦は最初から、譲歩する気などなかった。あなたを条件に持ち出したのは、単に交渉を決裂させるための道具だ」
セシルは、それでも自分を責める表情を隠せなかった。彼女は、自分という存在が、両国の関係を決定的に破壊する引き金の一つになったことを、頭では理解しながらも、心では受け入れられずにいるようだった。オルコットは、彼女の肩に手を置き、静かに言葉を継いだ。
「――あなたがいなくても、連邦は何か別の口実を見つけただろう。彼らは、戦争を望む理由を、最初から探していた。それだけのことだ」
その言葉が、彼女の心にどれだけ届いたかはわからなかった。だが、セシルは、しばらくの沈黙の後、小さく頷いた。
ラスクは、さらに詳細な会談内容を伝えた。
「――連邦側代表は、途中まで、賠償交渉の余地を残す構えを見せていました。ですが、後半になって、突如として態度を硬化させたとの情報があります。恐らく、会談の場に、特務局からの強硬な指示が届いたのでしょう」
「――ヴィスが、裏で糸を引いていた、ということか」
「断定はできませんが、そう考えるのが自然です。彼にとって、外交による解決は、自らの権力基盤を弱める結果にしかなりません。粛清と断罪こそが、彼の存在意義そのものですから」
オルコットは、拳を握りしめたまま、しばらく動かなかった。一人の男の権力欲が、二つの国家、数百万の民衆の運命を、これほどまでに左右する。その理不尽さに、彼は言葉を失った。
「――外交が失敗した以上、次に何が起きる」
「両国とも、軍事動員法案の可決に向けて動き出すでしょう。そして、その先にあるのは」
ラスクは、そこで言葉を止めた。誰もが、その先を口にすることを躊躇っていた。だが、控室に満ちた沈黙そのものが、答えを雄弁に語っていた。
会談の決裂を受け、両国は、それぞれの議会で、正式な軍事動員法案の審議を開始した。灰域を挟んだ対立は、もはや、外交では止められない段階に入っていた。ヴェスタ港の係留区画には、帰還の準備を急ぐ両国の要人たちの姿があった。かつて出会いの場所であったこの港が、今や、決別の記憶を刻む場所として、オルコットの記憶に上書きされていくのを、彼は静かに感じていた。
帰路の輸送艇の中で、セシルは、窓の外に遠ざかっていくヴェスタ港を、長い間見つめていた。
「――もう、二度とここに来ることはないかもしれませんね」
「そうかもしれない。だが、あなたと出会った事実は、この場所が消えても、なくならない」
「詩人みたいなことを言うんですね、艦長」
「ここでは、艦長じゃない」
オルコットが、以前と同じ言葉を返すと、セシルはようやく、小さく笑った。だが、その笑みはすぐに、翳りを帯びた表情に変わった。
「――ラスクさん、これから、私たちはどうなるんでしょうか」
ラスクは、しばらく沈黙した後、静かに答えた。
「軍事動員法案が両国で可決されれば、正式な戦争状態への移行は、時間の問題です。そうなれば、あなたがたの立場は、これまで以上に危険なものになるでしょう。ですが」
「ですが?」
「鍵は、すでに鎮魂会の手にあります。国家の思惑がどう転ぼうと、あの鍵だけは、両国のどちらの手にも渡らない場所に留まり続けます。それだけが、せめてもの救いです」
オルコットは、窓の外に広がる灰域の暗闇を見つめた。星の見えないその暗闇の中に、これから訪れるであろう戦争の予兆が、確かな重さを持って迫りつつあった。
輸送艇が跳躍点に近づくにつれ、船内の照明が、航行モードに合わせて赤く落とされていった。オルコットは、その薄暗い光の中で、セシルの手を握ったまま、しばらく何も言わずに過ごした。言葉を重ねるよりも、ただ隣にいることの方が、今の二人にとっては意味を持つように思えた。
やがて、跳躍炉の起動音が、船内に低く響き始めた。短距離跳躍炉の充填音は、いつ聞いても、これから未知の場所へ運ばれていくことへの、かすかな緊張を伴っていた。オルコットは、目を閉じ、これから待ち受ける日々に備えて、静かに呼吸を整えた。
(第75話へ続く)