同盟議会は、緊急の軍事動員法案を可決した。全同盟領内の予備役召集、産業界の軍需転換、そして境界防衛艦隊のさらなる増強――かつてない規模の戦時体制が、急速に整えられていく。ハイド・ステーションの造船区画では、これまで民需転用されていたドックの一部が、急遽、軍艦建造用に切り替えられたという知らせも届いていた。
「――俺たちが恐れていた未来が、現実になろうとしている」
オルコットは、動員令の発表を見つめながら呟いた。艦橋の情報端末には、動員令の詳細な条文が次々と表示されていく。予備役召集の対象年齢、産業界への軍需転換命令、そして境界防衛艦隊への追加戦力配備計画――どれもが、彼がこれまで漠然と恐れてきた未来を、具体的な数字と条文に落とし込んだものだった。
《薄明》の乗員たちにも、動揺が広がっていた。イズマ機関長は、故郷の家族に連絡を取ろうとしたが、すでに一般通信網は軍事優先に切り替えられ始めていた。
「――家族と、ろくに話せもしないまま、戦争になるのか」
イズマは、通信端末の画面を何度も操作しながら、繋がらない回線に苛立ちを隠せない様子だった。彼の指先が、無意味に同じ操作を繰り返していた。通信端末からは、回線切断を告げる無機質な電子音が、絶え間なく漏れ続けている。その耳障りな音を聞きながら、オルコットもまた、自分の中に同じ種類の苛立ちが芽生えていることに気づいていた。
「イズマ」
「わかってます、艦長。愚痴ですよ、ただの」
オルコットは、彼の肩を叩いた。何も言えることはなかった。イズマには、故郷の農業惑星に、妻と幼い息子がいることを、彼は以前から聞かされていた。動員令は、彼のような一兵士の家庭にも、確実に影を落とし始めていた。
艦内の食堂に貼り出された動員令の通達には、予備役召集の対象となる年齢層や職種が、細かく列挙されていた。ダーナは、その通達を前に、乗員たちの表情を注意深く見て回っていた。
「――艦長、乗員の士気については、今のところ大きな乱れはありません。ただ、故郷に残してきた家族の安否を気にする者が、日に日に増えています」
「無理もない。国が戦争の準備を始めれば、真っ先に不安に晒されるのは、前線ではなく銃後の人々だ」
オルコットは、これまで幾度も見てきた光景を思い出していた。哨戒任務で立ち寄った辺境の入植惑星では、いつも、兵士の家族たちが、不安と誇りの入り混じった表情で、彼らを見送っていた。動員令が本格化すれば、その光景は、これまでとは比較にならない規模で、同盟領内のあらゆる場所に広がることになるだろう。予備役召集の対象は十八歳から四十五歳までと定められており、同盟領内だけで、およそ二百万人が新たに動員の対象になるという試算も、報告書には記されていた。数字として並べられたその規模の大きさに、オルコットは改めて息を呑んだ。
オルコットは、束の間、自分自身の郷里に思いを馳せた。同盟辺境の小さな漁村で育った彼にとって、故郷とはとうに遠い記憶に過ぎなかったが、それでも、潮の匂いと、粗末な波止場の板が軋む音だけは、今も鮮明に覚えている。動員令が布告されたこの夜、あの故郷の漁師たちもまた、同じように落ち着かない夜を過ごしているのだろうか。そう思うと、彼の胸にも、名状しがたい重さが広がった。
「――すまない。何もしてやれない」
「艦長のせいじゃありません。ただ、こういう時に、家族の声が聞きたいだけです。誰だってそうでしょう」
オルコットは、その言葉に、静かに頷くしかなかった。彼自身にも、遠く離れた場所に、連絡を取り合う家族がいた。だが今は、その連絡すら、軍の優先通信網の混雑によって、思うようにいかない状況だった。
同時期、連邦側でも同様の動員が進められていた。セシルが得た情報によれば、連邦は、これまで秘密裏に進めてきた自律無人艦の実戦配備計画を、正式に公表する準備を進めているという。
「――ついに、公にするのか」
「はい。『同盟の侵略に対抗するための、最新防衛技術』として、国民に発表するようです」
オルコットは、鎮魂会に託した鍵の重みを、改めて思い知らされた。あの鍵は、自律無人艦が本格的に配備される、まさにこの時代に向けて準備されたものだった。三年前、実験段階に過ぎなかった自律核が、今や、国家の公式な防衛戦略の中核として位置づけられようとしている。その事実は、彼がこれまで抱いてきた確信――どちらの国家にも自律艦の生殺与奪を独占させてはならない、という信念――の正しさを、皮肉にも証明していた。
セシルは、連邦の公表準備について、さらに詳しい情報を伝えた。
「――連邦軍上層部は、自律無人艦を『同盟の脅威から国民を守るための、人的犠牲を最小限に抑える技術』として宣伝するつもりのようです。実際には、まだ倫理制限――枷の実装には、多くの不備が残されたままです」
「不備、とは」
「自律核が、状況判断を誤って、非戦闘員を標的と誤認する可能性が、完全には排除されていません。私たちが設計チームで指摘し続けてきた問題です。ですが、上層部は、配備を急ぐあまり、その懸念を後回しにしています」
オルコットは、三年前に目撃した実弾試験事故の光景を、まざまざと思い出した。あの事故もまた、性急な配備と、不完全な安全設計が招いた悲劇だった。歴史は、同じ過ちを繰り返そうとしている。
「――だからこそ、鍵が必要だったんだな」
「はい。あの鍵がなければ、自律無人艦の暴走を止める手段は、国家の一存に委ねられたままになります。そして国家は、都合の悪い暴走を、隠蔽することを選ぶでしょう。あなたが目撃した、あの事故のように」
ラスクが、深刻な表情で報告に来た。
「――院長からの伝言です。『自律無人艦の配備が現実のものとなる以上、鍵の重要性はこれまで以上に増す。鎮魂会は、鍵を守り抜く覚悟を新たにする』とのことです」
「――院長の覚悟に、感謝するしかない」
オルコットは、静かに頷いた。両国が戦争へと突き進む中、鍵だけが、国家の手の届かない場所で、静かにその役割を待ち続けていた。
ラスクは、さらに続けた。
「――ただし、鎮魂会内部でも、緊張が高まっているようです。院長は、鍵を守るために、これまで以上に厳重な警備体制を敷く必要があると判断しています。一部の司教たちからは、『世俗の戦争に巻き込まれるべきではない』という慎重論も出ているようですが」
「――院長は、それにどう応えている」
「『この鍵を託されたということ自体が、すでに世俗と無縁ではいられないことを意味する』と。院長は、覚悟を決めておられます」
オルコットは、灰域の暗闇の向こうにあるという、鎮魂会の本拠地を思い浮かべた。彼自身、その正確な位置を知らされてはいなかったが、そこには今、静かに、しかし確実に、嵐に備える人々がいる。名も知らぬ修道士たちが、鍵という、国家の運命を左右しかねない代物を守るために、日々を過ごしている。その事実に、彼は、これまで感じたことのない種類の敬意を覚えた。
「――俺たちは、正しい選択をしたんだろうか」
彼は、誰に問うともなく呟いた。セシルが、静かに答えた。
「正しいかどうかは、まだ誰にもわかりません。ですが、少なくとも、私たちは、何もしないという選択はしませんでした。それだけは、確かなことです」
窓の外、ハイド・ステーションの軌道上には、新造艦の建造ドックが、かつてないほどの数、稼働しているのが見えた。溶接の火花が、暗い宙域のあちこちで、無数の小さな星のように瞬いていた。それは、かつてセシルが望んだ「星の見える場所」とは、まったく違う種類の光景だった。人の手による、破壊のための光。オルコットは、その光を見つめながら、皮肉な感慨を覚えずにはいられなかった。彼女が望んだ本物の星の光は、この灰域からは、これから先も、決して見ることのできないものなのかもしれない。そう思うと、胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
戦争という巨大な歯車が、もはや誰にも止められない速度で、回転を始めていた。彼は、艦橋の椅子に深く座り直し、これから訪れる日々に備え、静かに気持ちを引き締めた。
その夜、オルコットは艦内を一巡した。当直の交代時間、通路にはいつもより多くの乗員がすれ違っていた。誰もが、いつも通りの業務をこなしながらも、その表情には、これまでよりも硬い緊張が張り付いていた。通路に漂う油と金属の匂いは、いつもと変わらないはずだった。だが、その匂いの奥に、これまでにない緊張の気配が確かに滲んでいるように、オルコットには感じられた。当直交代を告げる靴音の一つ一つが、普段よりも硬く、性急に響いていた。
機関区画では、イズマが、若い整備兵たちに、動員令下での緊急整備手順を、いつもより丁寧に教え込んでいた。砲雷管制室では、レフとセシルが、連邦の新型艦艇の想定スペックについて、資料を突き合わせながら議論していた。
「――もし、連邦が本当に自律無人艦を実戦投入してきたら、どう戦えばいい」
レフの問いに、セシルはしばらく考えてから答えた。
「自律核は、状況判断の速さでは人間の兵士を上回ります。ですが、判断の柔軟性――想定外の状況への対応力では、まだ人間に及びません。彼らの弱点は、恐らく、そこにあります」
「――想定外の状況を、作り出せばいいということか」
「はい。ただし、それを実行するのは、簡単なことではありません」
オルコットは、その会話を、戸口からしばらく黙って聞いていた。艦という小さな共同体が、来るべき戦争に向けて、それぞれの持ち場で、静かに、しかし確実に、備えを固めていく。その姿を見つめながら、彼は、自分がこの乗員たちを、必ず生きて帰す責任を負っていることを、改めて強く自覚した。
窓の外に広がる灰域の暗闇は、今夜もまた、いつもと変わらぬ静けさを湛えていた。だが、その静けさの向こうで、両国の艦隊が、それぞれの目的のために、着々と態勢を整えつつあることを、オルコットは痛いほど理解していた。
(第76話へ続く)