セシルが《薄明》に乗艦してから、艦内の空気には、これまでとは違う穏やかさが生まれた。それは、緊張が消えたという意味ではなく、緊張の質そのものが変わったということだった。外部からの脅威に対する警戒は、むしろ以前より強まっていた。だが、艦内という限られた空間の中では、乗員たちとセシルとの間に、少しずつ、共同作業の積み重ねによる信頼が芽生え始めていた。
「――技術顧問殿、砲雷管制システムの調整、助かりました」
レフが、珍しく素直に礼を言った。彼の口調には、以前の警戒の色がまだ完全には消えていなかったが、それでも、以前よりは幾分か柔らかくなっていた。
「連邦の技術基準を知っていると、こちらの弱点も見えてきます。お役に立てて何よりです」
セシルは、そう答えながら、端末の画面に表示された管制システムの調整数値を、レフとともに確認していった。連邦製の照準アルゴリズムの癖、同盟製の砲塔との相性の悪さ、それらを補正するための微調整――彼女の説明は具体的で、かつ、これまでの砲雷長としての経験を尊重する言葉選びがされていた。それが、レフの態度を少しずつ軟化させる一因になっていた。
「――正直に言うと、最初は艦にお客様が増えるだけかと思っていました。ですが、あなたの調整案は、こちらの現場を知った上でのものですね」
「現場を知らない技術屋の提案ほど、役に立たないものはありません。私は、机上の理論だけを振りかざす人間にはなりたくないんです」
その言葉に、レフは小さく笑った。連邦の技術士官という肩書きだけで判断していた自分を、少し恥じるような表情だった。艦内の食堂でも、セシルは少しずつ、乗員たちと言葉を交わすようになっていた。彼女が持ち込んだ連邦式の携行食の作り方を、当直明けの兵士たちが物珍しげに囲む場面もあった。小さな出来事の積み重ねが、彼女の居場所を、この艦の中に少しずつ形作っていった。
セシルは、艦の技術顧問として、着実に乗員たちの信頼を得ていった。それは、彼女が連邦出身であることへの警戒を、少しずつ解きほぐしていく過程でもあった。機関長のイズマは、当初こそ距離を置いていたが、彼女が機関区画の冷却系の効率について的確な指摘をしたことをきっかけに、次第に技術談義を交わすようになっていた。ダーナもまた、彼女の几帳面な仕事ぶりを評価し、艦内の警備配置についても、彼女の意見を積極的に取り入れるようになっていた。
夜、当直を終えたオルコットは、艦橋の隅でセシルと束の間の時間を過ごすのが、日課になっていた。灯りを落とした艦橋には、計器のわずかな光と、窓の外に広がる灰域の淡い輝きだけが残っていた。
「――こんな日々が、いつまで続くんでしょうか」
セシルが、星の見えない灰域の暗闇を眺めながら呟いた。灰域は、その名の通り、恒星の光がほとんど届かない宙域だった。星々の輝きさえも奪われたその暗闇は、時に、二人の未来そのものを暗示しているようにも見えた。
「わからない。だが、続く限りは、大切にしたいと思っている」
「らしくない言葉ですね、艦長」
「ここでは、艦長じゃない」
オルコットは、静かに笑った。艦長としての彼は、常に部下の命を預かり、判断を下し続けなければならない。だが、この艦橋の隅の、灯りの落ちた片隅でだけは、彼はただの一人の男に戻ることができた。
「――グレイとして、言わせてくれ。あなたと出会わなければ、俺はきっと、三年前の記憶を抱えたまま、一人で腐っていたと思う」
三年前の実弾試験事故の記憶は、今でも時折、彼の夢の中に現れた。改竄された記録、隠蔽された真実、そして、名も残らないまま処理された民間人の死者たち。あの光景を目撃して以来、彼は、国家というものへの根源的な不信を、心の奥底に抱え続けてきた。誰にも打ち明けられないその重みを、初めて分かち合えたのが、セシルだった。
セシルは、しばらく黙っていたが、やがて彼の肩に頭を預けた。
「――私も、同じです。あなたに出会わなければ、私はきっと、罪の意識だけを抱えて、連邦の中で自分を殺し続けていたでしょう」
彼女が担ってきた罪の意識――枷の設計に関わりながら、それが隠蔽の道具として使われることを止められなかった過去。オルコットは、その重さを完全に理解することはできなかったが、それでも、彼女がその重さを一人で抱え込まなくて済むように、隣にいたいと思った。
「――なあ、セシル」
「何ですか」
「もし、すべてが終わったら――戦争が来る前に、俺たちがまだ、どこかに逃げ場を見つけられるとしたら、あなたは何を望む」
セシルは、しばらく考え込んだ。灰域の暗闇を見つめる彼女の瞳には、束の間、遠い場所を思い描くような柔らかさが浮かんでいた。
「――星の見える場所に、行ってみたいです。灰域では、生まれてからずっと、星を見たことがありません。連邦の首都でも、光害でほとんど見えませんでした」
「星、か」
「馬鹿げた望みだと、わかっています。今の状況で、そんな悠長なことを考えている場合ではないと」
「馬鹿げてはいない」
オルコットは、静かに首を振った。
「俺も、いつか、あなたと星を見てみたい。それだけの理由で、生き延びる価値はあると思う」
その言葉に、セシルは小さく笑い、そして、その笑みのまま、彼の肩により深く頭を預けた。
灰域の暗闇の中、二人だけの静かな時間が流れた。だが、その平穏は、長くは続かないことを、二人とも理解していた。艦の外では、粛清が進み、暗殺の影が忍び寄り、両国の軍備が着々と拡張されていた。この静けさは、嵐の前の、ほんのわずかな凪に過ぎなかった。
翌朝、ラスクからの緊急連絡が、その平穏を打ち破った。通信端末の音が、いつもより硬く、鋭く響いた。
「――連邦議会が、正式に『同盟への軍事的対抗措置』を審議する臨時会議を招集しました。事実上の、宣戦布告に向けた手続きの始まりです」
艦橋の空気が、一瞬にして張り詰めた。乗員たちの間にも、報告の内容がすぐに伝わり、それぞれの持ち場で、静かな緊張が広がっていくのが感じられた。
「――ついに、来たか」
オルコットは、窓の外の暗闇を見つめながら、静かに呟いた。灰域の向こうから、これまで漠然とした予感でしかなかったものが、ようやく具体的な輪郭を持ち始めていた。彼は、隣に立つセシルの手をそっと握った。彼女もまた、その手を強く握り返した。二人の間に流れる静かな時間は、これからますます貴重なものになっていくだろう。彼は、そのことを、痛いほど確信していた。
ラスクからの報告を受け、艦橋にはすぐさま、参謀部との緊急通信回線が開かれた。オルコットは、艦長席に座り直し、報告書を手元に呼び出した。
「――臨時会議の議題は、正確にはどのようなものだ」
「連邦国内向けの発表では、『同盟による軍事的挑発行為への対抗措置の検討』とされています。実質的には、境界防衛艦隊への追加戦力配備、及び、灰域における交戦規定の緩和が主な内容と見られます」
「交戦規定の緩和、か」
「はい。これまで抑制されてきた先制攻撃の権限を、現場指揮官に一部委譲する方向だという情報もあります」
オルコットは、その言葉の意味を、静かに噛みしめた。これまで、灰域での小競り合いは、双方とも一定の自制のもとで行われてきた。哨戒艦同士がすれ違う際にも、双方の艦長は、無用な威嚇射撃を控え、あくまで牽制の範囲にとどめるという不文律を守ってきた。だが、交戦規定が緩和されれば、些細な誤解や偶発的な接触が、そのまま大規模な衝突へと発展しかねない。現場の判断に委ねられる裁量が広がるということは、同時に、現場の誤りが、そのまま国家間の破局に直結するということでもあった。
「――同盟側は、どう動く」
「まだ正式な発表はありません。ですが、ドーベル少将をはじめとする現場指揮官からは、同様の対応を求める声が、すでに上がり始めています」
セシルが、静かに口を開いた。
「――これは、悪循環です。片方が構えを強めれば、もう片方も構えを強めざるを得なくなる。誰も本気で戦争を望んでいなくても、この循環だけで、戦争は現実のものになってしまいます」
オルコットは、彼女の言葉に頷いた。国家という巨大な機構は、時に、誰も望まない結末に向かって、自動的に歯車を回し続ける。彼が三年前に目撃した実弾試験の事故も、恐らくは、その歯車の一部が生んだ悲劇に過ぎなかった。
「――俺たちにできることは」
「今は、鍵を守り抜くこと。それだけです」
その夜遅く、オルコットは一人、艦長室で報告書の束を読み返しながら、これから訪れるであろう嵐の規模を、静かに推し量っていた。窓の外の灰域は、いつもと変わらぬ暗闇を湛えていたが、その静けさの奥に、確実に、何か巨大なものが動き始めているのを、彼は感じ取っていた。
彼は、報告書の余白に、ふと、セシルが口にした「星の見える場所」という言葉を書き留めた。艦長としての彼にとって、それは戦略とも戦術とも無関係な、ただの私的な望みに過ぎなかった。だが、この重苦しい日々の中で、その小さな望みだけが、彼の心をかろうじて支える灯りになっていた。彼は、その一行をしばらく見つめた後、静かに報告書を閉じ、灯りを落とした艦長室で、眠りにつく前のわずかな時間を、その灯りとともに過ごした。
(第74話へ続く)