デルフォスまでの航路は、短距離跳躍を四回繰り返す、およそ二日半の行程だった。連邦の哨戒網を避けるため、艦隊は通常航路から大きく外れた迂回ルートを取っている。星図上に描かれたその軌跡は、まっすぐな一本の線ではなく、幾度も折れ曲がる細い糸のように見えた。
オルコットは艦長席で、その糸の先を見つめていた。デルフォス――地下深くに正規管制鍵が眠るという、資源惑星。そこへたどり着くまでに、あと二回の跳躍と、二回のチャージ待機が残されている。
跳躍炉のチャージ待機時間、艦隊は無防備になる。加速も回避運動も取れず、ただエンジン内部で燃焼が進むのを待つしかない。この時間帯こそが、作戦全体で最も発見のリスクが高い瞬間だった。オルコットはこれまで幾度となく、この「動けない時間」を乗り越えてきたが、慣れるということはなかった。慣れてしまえば、その分だけ油断が生まれる。
「三回目の跳躍、チャージ完了まであと十一分」
レフが緊張した声で報告する。オルコットはセンサー情報に目を走らせた。表示された数値は静かに減っていく。十一分、十分五十秒、十分四十秒――時間の流れが、こういうときだけやけに粘つくように感じられる。
「周辺に反応は」
「今のところクリアです。ただ……」
レフが眉をひそめた。画面の端で、微かな輝点が明滅している。
「さっきから、遠距離センサーに微弱な反応が。連邦の高感度哨戒ブイかもしれません」
「距離は」
「62,000。こちらの動きを捉えられる範囲ではないはずですが……念のため、警戒レベルを上げます」
オルコットは頷いた。62,000という数字が、安全なのか際どいのか、正確なところは誰にも断言できない。哨戒ブイの感度は個体差があり、連邦が最近配備したという新型なら、想定より広い探知範囲を持っている可能性もある。だが今、この距離で回避運動に入れば、逆にエンジン痕跡を残し、発見される確率を上げてしまう。動かないことこそが、今取れる最善の一手だった。
十一分間、艦橋には張り詰めた沈黙が流れた。跳躍炉のチャージ音だけが、規則正しく響いていた。誰も無駄口を叩かない。イズマは機関制御盤の前で、チャージ効率を示す数値から目を離さなかった。わずかな出力の揺らぎも、彼にとっては見逃せない兆候だった。
「機関、異常なし。チャージ効率、98パーセントで安定」
イズマが低い声で報告する。オルコットは小さく頷き返した。この艦にとって、98パーセントという数字は十分すぎるほど良好だった。だが同時に、残り2パーセントの不確実性が、いつも頭の片隅に居座っている。
「輝点、動きは」
「変化なし。方位も変わっていません。……おそらくブイ自体は無人で、こちらを個別に追尾しているわけではないかと」
オルコットはコンソールに表示された相対距離の推移を目で追った。62,000から61,980、61,950――ほとんど変化していない。もし本当に追尾されているなら、この程度の緩やかな変化では済まないはずだった。それでも彼は警戒レベルを下げなかった。楽観的な解釈で警戒を緩め、後になって取り返しのつかない失敗をした指揮官の話を、これまでいくつも聞いてきた。自分だけはそうならないという保証は、どこにもない。
「おそらく、か」
オルコットは呟いた。断定できることなど、この仕事にはほとんどない。できるのは、確率を積み重ねて、その上に立って判断を下すことだけだ。もし今の判断が間違っていたら――哨戒ブイが本当にこちらを捉えていたら――艦隊は跳躍炉のチャージが終わる前に、連邦の追撃部隊に捕捉されることになる。そうなれば、鍵を鎮魂会へ届けるという計画そのものが、ここで潰える。
だが、引き返すという選択肢はもはや残されていなかった。護送艦隊はすでにデルフォスへ向けて進んでいる。ここで足踏みすれば、機会そのものが失われる。リスクを取らない選択が、必ずしも安全とは限らない。それもまた、この仕事が教えてくれたことだった。
「チャージ完了まで、五分」
レフの声が艦橋に響く。誰かが小さく息を吐いた。ダーナだった。彼女はセンサーコンソールの端に手をかけたまま、表示を睨み続けている。
「ダーナ、通信傍受は」
「連邦側の通信量に、目立った変化はありません。哨戒ブイの反応は、単なる自動観測装置である可能性が高いと判断します」
「そう判断したい気持ちはわかるが、確定と混同するな」
「――失礼しました。可能性が高い、にとどめます」
オルコットは苦笑いのようなものを浮かべた。厳しく聞こえたかもしれないが、この場でその区別を曖昧にすることは許されない。希望的観測は、艦を守る役には立たない。
「チャージ完了。跳躍します」
《薄明》を含む艦隊は、静かに空間を切り裂き、三回目の跳躍を終えた。宙域が瞬時に切り替わる感覚は、何度経験しても慣れることがない。一瞬の眩暈のような感覚のあと、新しい星図がコンソールに展開された。
「跳躍成功。周辺反応、クリアです」
レフの声にわずかな安堵が滲む。だが、まだ終わりではない。あと一回、跳躍が残っている。
「次のチャージ、開始します。完了まで、十八分」
十八分――先ほどより長い待機時間だった。跳躍炉は連続使用によって負荷が蓄積し、次のチャージにはより長い時間を要する。この四回目の跳躍で、艦隊はようやくデルフォス星系の外縁に到達する予定だった。
オルコットは艦長席の肘掛けに指を這わせながら、これまでの航程を思い返した。四回の跳躍、二日半。連邦の通常監視網を避けるための迂回ルート。護送艦隊の動きに合わせて逆算された、綱渡りのようなスケジュール。どこか一箇所でも読みが外れれば、鍵を奪取する好機そのものが失われる。
イオン・ラスクが最初にこの作戦を持ちかけてきたとき、彼は「賭けだ」と言った。オルコットもそれに同意した上で、この航路を選んだ。だが賭けである以上、負ける確率は常に存在する。負けたときに何を失うかを、常に計算しておかなければならない。艦、乗員、鍵、そして――セシルの立場。彼女が命がけで流してくれる情報が、もし途中で連邦に察知されれば、真っ先に彼女が疑われることになる。
計算はいつも同じところに行き着く。得られるものと、失う可能性のあるものを並べ、それでもなお前に進むべきかを問う。今回、天秤の片側に載っているのは、正規管制鍵という、国家の生殺与奪すら左右しかねない代物だった。もう片側には、艦とその乗員全員の命、そして海の向こうで孤立無援のまま情報を流し続ける一人の女性士官の未来が載っている。オルコットはその重みを、誰にも肩代わりさせるつもりはなかった。決断を下すのは自分であり、その結果を背負うのもまた自分でなければならない。
「艦長、十八分間、何もせず待つだけというのも、精神的にこたえますね」
レフがぽつりと漏らした。緊張をほぐすつもりなのか、それとも本音なのか、判然としない口調だった。
「動いていないように見えて、艦は今も燃焼を続けている。何もしていないわけじゃない」
「……そう言われると、多少は気が紛れます」
「気は紛れなくていい。警戒だけは怠るな」
「了解です」
十八分間、艦橋には再び沈黙が満ちた。だが先ほどとは違う種類の沈黙だった。三回目の跳躍を無事に終えたことで、乗員たちの間にわずかな手応えが生まれている。それでも誰も気を抜かなかった。長い航路の終盤にこそ、油断による事故が起きやすいことを、誰もが経験として知っていた。
イズマが機関出力のログを一枚一枚めくるように確認していく。四回の跳躍を経て、跳躍炉の内壁には確実に負荷が蓄積している。次のチャージで異常が出れば、それは今この瞬間の判断ミスではなく、これまでの四回分の消耗が積み重なった結果として現れる。オルコットはその報告を聞きながら、艦という乗り物が、単なる金属の塊ではなく、これまでの航程の記憶を内側に刻み込んでいく生き物のようなものだと、改めて感じた。
「残り十分」
レフの声が短く艦橋に落ちる。誰も答えなかった。答える必要のない報告だった。ただ数字だけが、静かに時を刻んでいく。オルコットは窓の外――といっても実際には装甲越しの映像でしかないが――に広がる、何もない宙域を見つめた。星の光さえまばらなこの一角に、連邦の哨戒網の目が届いていないことを祈るしかない時間だった。
「チャージ完了。四回目の跳躍、実行します」
「――ここまで来た」
オルコットは小さく息を吐いた。だが安堵は長く続かなかった。
「艦長、通信傍受班より報告。デルフォス周辺の連邦軍通信量が、通常の1.5倍に増加しています」
ダーナの声に緊張が走る。
「特務班による警備強化の影響か」
「おそらくは。ただ、こちらの接近を察知しての増加かどうかは判別できません」
オルコットは表示された通信量のグラフを見つめた。1.5倍という数字は、決して小さくない増加だった。単なる定期的な警備更新なのか、それとも何らかの兆候を掴んだ上での増強なのか、この段階では判断がつかない。だが、判断がつかないからといって、作戦を止める理由にはならなかった。
マグダから通信が入った。
「艦長さん、どうする。予定通り突入するか、それとも様子見するか」
護送艦隊はすでにデルフォスへ向けて出発している。時間を置けば、鍵は保管庁舎の奥深くへ搬入され、警備はさらに厳重になる。今しかない好機だった。オルコットは短く目を閉じ、これまでの航程で積み重ねてきたリスクと、これから踏み込む先にあるリスクを、もう一度天秤にかけた。どちらを選んでも代償は伴う。だが、待つことによる代償の方が、確実に大きい。
「――予定通り決行する。ただし、最大限の警戒を維持したまま」
「了解。うちの地上部隊も、プラント跡地への展開を開始する」
艦隊は静かに、デルフォス星系内部への最終接近を開始した。緑がかった惑星の姿が、センサー越しに次第に大きくなっていく。オルコットはその映像を見つめながら、ここまでの二日半で消費した燃料と時間、そして乗員たちが背負ってきた緊張の総量を、頭の中で静かに数え直した。すべては、この惑星の地下に眠るものと引き換えにするための代償だった。
その地下深くに眠る鍵が、まもなく歴史の表舞台へと引きずり出されようとしていた。
(第20話へ続く)