デルフォス標準時0400、護送艦隊が連邦本星の軌道港を出発したという一報が、ラスクの情報網を通じて届いた。
「――動いた」
オルコットは短く呟き、艦内放送のスイッチを入れた。手のひらには、昨夜の交戦の際に握りしめた肘掛けの感触がまだ残っているような気がした。四十八時間眠っていない。だが今この瞬間だけは、頭の芯だけが妙に冴えていた。
「総員、聞け。連邦の護送艦隊が出発した。我々もこれより作戦行動に移る。目標はデルフォス地下要塞、目的は正規管制鍵と呼ばれる物資の確保。これは正規の命令書に基づく任務ではない。だが、必要な任務だ」
艦橋、機関室、砲塔――艦内のあらゆる持ち場で、乗員たちが息を詰めて聞いていた。放送用マイクの向こうに、二百十六人分の顔があることを、オルコットは一人一人思い浮かべることができた。彼らの大半とは、この三年間の哨戒任務で寝食を共にしてきた仲だった。名前も、癖も、家族の話も、ひととおり知っている。その全員の命を、これから自分の判断ひとつで危険に晒すことになる。
「俺たちがやろうとしていることは、国家間の正式な合意の外にある。失敗すれば、誰も守ってくれない。それでも、俺はお前たちと共にこの任務に臨みたい。嫌なら今からでも降りていい。恨みはしない」
沈黙が数秒続いた。艦内放送の回線に乗る、かすかなノイズの音だけが続いていた。オルコットはその数秒を、これまでの任務の中で最も長い数秒のように感じていた。誰も応じなければ、それでいい。そう自分に言い聞かせながら、同時に、誰か一人でも応じてくれることを強く願っている自分にも気づいていた。
やがて、艦内通信のあちこちから、短い応答が返ってきた。
「艦長について行きます」
砲塔要員の誰かの声だった。若く、少し掠れていた。
「今更降りられるかよ」
これは機関室からだ。イズマの部下の一人だろう、笑いを含んだ声だった。
「準備は万端です、艦長」
レフの声は、いつも通り落ち着いていた。
「うちの班も同じです。行きましょう」
「家族には手紙を出してあります。艦長、心配は要りません」
「砲雷科、いつでも撃てます。今度は外しません」
先の交戦を知る者からの、皮肉めいた軽口だった。オルコットは口元をわずかに緩めたが、笑いはしなかった。この程度の軽さがちょうどいい。重苦しさばかりでは、二百十六人の誰もこの先の任務を持ちこたえられない。
「機関、出力全開まで四十秒で立ち上げられます。イズマ、準備できてるな」
「当然です。この艦を、ここで止めるわけにはいきません」
イズマの声には、いつもの実務的な硬さの中に、わずかな熱がこもっていた。
一つひとつの声が積み重なっていくのを、オルコットは目を閉じて聞いていた。応答は誰かに強制されたものではなく、それぞれの持ち場から、それぞれの言葉で返されたものだった。それが何よりもこたえた。彼らは怖くないわけではない。怖くても、それでもついて行くと言っている。その重みを背負う覚悟が、自分にあるかどうか、オルコットは今一度自問した。
オルコットは小さく頷いた。
「――全艦、跳躍準備。マグダの残り火隊と合流地点で落ち合う」
《薄明》は静かに灰域を離れ、指定された合流座標へと針路を取った。窓の外では、灰域特有の薄い航宙塵が後方へ流れていく。距離にしておよそ四百二十キロ、跳躍炉を使わない通常航行でも一時間半ほどの道のりだった。オルコットは艦長席で、昨夜の交戦報告書と今日の作戦概要を交互に見返しながら、頭の中で幾度も手順を反芻していた。
艦内放送を終えたあとも、艦橋にはしばらく張り詰めた静けさが残っていた。ダーナが淡々と航行諸元を読み上げ、レフが砲塔各所の弾薬残量を確認し、それぞれの持ち場の報告が一つずつ積み重なっていく。いつもと変わらない手順のはずだったが、今日に限っては、その一つひとつの報告に、いつもより幾分か長い間が挟まれているように感じられた。誰もが、口には出さない緊張を抱えたまま、それでも自分の仕事を淡々とこなしていた。
「艦長、燃料残量、往復分に加えて予備燃料タンクも満載にしてあります。何かあった時のためです」
補給担当の下士官が、わざわざ艦橋まで報告に上がってきた。オルコットはその律儀さに、小さく頭を下げた。
「助かる。ありがとう」
一時間半の航行の間、オルコットは何度も自分に問いかけていた。この任務に、彼らを付き合わせる資格が自分にあるのか。命令書もなく、国家の後ろ盾もない任務に、二百十六人分の人生を賭けさせていいのか。答えの出ない問いだった。それでも、艦長席を立つという選択肢は、彼の中に一度も浮かばなかった。
合流地点では、マグダ率いる残り火隊二十三隻がすでに展開を終えていた。老朽化した艦体が多いが、長年の実戦を潜り抜けてきた者たちの気迫は、正規艦隊にも劣らないものがあった。近づくにつれ、スクリーンにその陣容が映し出された。継ぎ接ぎだらけの装甲、規格の異なる砲塔、艦種もまちまちな二十三隻が、それでも整然とした隊形を組んでいる。塗装の剥げた船体には、それぞれの艦が潜り抜けてきた歳月の傷が刻まれていた。ある艦の側面には、応急補修の跡が幾重にも重なり、まるで年輪のように見えた。別の艦の主砲は明らかに旧式の規格で、部品供給すら怪しいはずだった。それでも二十三隻すべてが、指定された位置に寸分違わず収まっていた。統率の緩んだ寄せ集めではない。オルコットはその隊列を見て、そう確信した。
「残り火隊、総員二千百名程度と聞いています。艦の数の割に、多いですね」
ダーナが呟くように言った。
「老朽艦は人手がかかる。自動化が進んでいない分、手作業で支えている部分が多いんだろう」
オルコットはそう答えながら、二千百という数字の重さを噛み締めていた。《薄明》の二百十六人に加えて、この二千百人。合わせて二千三百人以上の命が、これから始まる作戦の結果次第で、無事に帰れるかどうかが決まる。数字にすれば単純だが、その一人ひとりに、名前と、帰りを待つ誰かがいるはずだった。
「艦長さん、待ちくたびれたよ」
通信越しにマグダの声が響く。快活だが、その奥にどこか乾いた響きがあった。
「地上部隊も準備完了だ。あとはあんたの号令次第さ」
「感謝する、マグダ隊長。貴隊の二十三隻、必ず無駄にはさせない」
「無駄にするもしないも、乗ってるのは全員承知の上の年寄りばかりさ。あんたが気に病むことじゃない」
マグダの声には、これまで幾つもの艦を、幾人もの仲間を見送ってきた者だけが持つ、乾いた諦観と、それでも消えない気概とが同居していた。オルコットはその声の重みを、黙って受け止めるしかなかった。
鎮魂会の代理人――若い修道士アダムが、小型の巡礼艇で合流していた。艇体には鎮魂会の紋章である小さな灯火の意匠が刻まれ、装甲もろくに施されていない、非武装の船だった。それでもアダムは臆する様子もなく、《薄明》の連絡用シャトルへ乗り移ってきた。彼はグラン院長から託された小さな聖具箱を携えていた。
「艦長、お久しぶりです」
アダムの声は若く、緊張と使命感の入り混じったものだった。彼はまだ二十歳を出たばかりのはずだった。こんな若者にまで、この計画の重みを背負わせていることに、オルコットは小さな苦さを覚えずにいられなかった。
「院長より、これを艦長へ。『正しく託されたものにするために』と」
箱の中には、古びた祈祷文の写しと、鎮魂会の紋章を刻んだ小さな灯火の意匠があった。木製の箱は年季が入り、四隅の金具はすでに黒ずんでいた。オルコットはそれを両手で受け取り、しばらくその重みを確かめるように持っていた。物としての重さはごくわずかだったが、そこに込められた意味の重さは、彼が今日これから率いる艦隊の総トン数よりも重く感じられた。
「院長は息災か」
「はい。艦長たちのご無事を、日々の祈りに加えておられます」
オルコットはそれを胸ポケットに収めた。布越しに、箱の硬い角がかすかに胸に当たった。
アダムはそのままシャトルの窓越しに、遠ざかっていく残り火隊の艦列を見つめていた。
「艦長、私は戦えません。ですが、祈ることはできます。この作戦に関わる全員のために、私は祈り続けるつもりです」
その言葉に、皮肉めいた響きは一切なかった。オルコットは黙って頷いた。祈りが弾丸を止めることはない。それでも、この若い修道士の言葉には、彼なりの覚悟が確かに宿っていた。
「頼む」
短くそれだけを返し、オルコットはアダムを見送った。巡礼艇は非武装のまま、艦隊の最後尾、最も安全な位置につくよう指示されていた。
「――出撃する」
艦隊は静かに、しかし確実に、デルフォスへ向けて針路を定めた。二十三隻の残り火隊、一隻の《薄明》、そして非武装の巡礼艇一隻。この編成の全員が、これから先の数時間で、それぞれの持ち場からそれぞれの命を差し出すことになるかもしれない。オルコットは艦長席に深く座り直し、窓の外に広がる暗闇を見つめた。
これまでの哨戒任務では、守るべきものは明確だった。同盟の領域、同盟の民、命令書に記された任務目標。だが今回は違う。命令書の外側にある任務であり、守るべきものは制度そのものではなく、制度が守りきれなかった何かだった。その違いの重さを、オルコットは自分の胸の中で何度も測り直していた。
二千三百人余りの命と、木箱ひとつに納められた古びた祈祷文と、まだ姿を見せていない正規管制鍵。釣り合っているとは、とても言えなかった。それでもオルコットは、この不釣り合いさこそが、今の同盟にも連邦にも欠けているものだと信じるしかなかった。信じることをやめた瞬間、艦長席に座り続ける資格を失う。そう自分に言い聞かせ、彼は前方の暗闇を見据えた。
(第19話へ続く)