作戦開始前夜、灰域の外縁で小規模な衝突が起きた。
《薄明》が最終位置につくため航路を移動していたのは、デルフォス標準時で言えば深夜二時を回った頃合いだった。艦橋の照明は戦闘配置を意識して落とされ、計器盤の緑と橙の光だけが乗員たちの顔を下から照らしている。エンジンの唸りは低く一定で、艦内は静まり返っていた。オルコットは艦長席の肘掛けに肘を預け、正面のメインスクリーンに映る灰域の暗闇を眺めていた。星の数は少なく、航宙塵が薄い帯となって光をわずかに滲ませている。
「機関出力、七十二パーセントで安定。冷却系、問題なし」
イズマの声が機関室から届く。淡々とした報告の裏に、いつもの緊張が滲んでいた。護送作戦本番を翌日に控え、《薄明》は最終待機位置へ向けて、できるだけ音を立てずに航路を進んでいたはずだった。
オルコットは自分に、明日の護送作戦の段取りを頭の中で繰り返させていた。デルフォス地下要塞の警備配置、鍵の保管区画までの経路、地上部隊との合流時刻。何度反芻しても、頭の芯にわだかまる不安は消えなかった。こういう夜には、何も起こらないはずの航路にこそ、何かが潜んでいる気がしてならない。長年の勘だった。当てにならないと分かっていても、無視することもできない勘だった。
「艦長、次の変針点まで十一分です」
ダーナの声に、オルコットは短く頷いた。窓の外を流れる航宙塵の帯を目で追いながら、彼は残り四時間半の待機時間を計算し直していた。ここを抜ければ、あとは指定座標で息を潜め、夜明けを待つだけのはずだった。
不意に、レーダー要員の声のトーンが変わった。
「艦長、未確認の反応――距離八十二キロ。急速に接近しています」
オルコットは背筋を伸ばした。腕時計の秒針が耳の中で鳴るような感覚があった。
「識別急げ」
数秒の沈黙。誰もが息を詰めていた。艦内の空調が回る音だけが、やけに大きく聞こえた。
「識別、連邦駆逐艦《ライフォス》。単艦です」
「向こうもこちらに気づいています。回避は間に合いません」
距離八十二キロという数字が、オルコットの頭の中で急速に縮んでいくように感じられた。連邦駆逐艦の主砲射程はおよそ六十キロ。あと十数秒で相手は照準を確立できる距離に入る。手のひらに汗がにじみ、肘掛けを握る指に力が入った。
「隠蔽状態は」
「連続隠蔽時間、残り四分十二秒。冷却系がこれ以上もちません。今この瞬間にも、向こうのセンサーに拾われている可能性が高いです」
副長のダーナが硬い声で付け加えた。
「艦長、決断を。四分後には隠蔽そのものが切れます。それまでに動くべきかと」
艦橋の隅では、若い通信士官が計器盤に張り付くようにして周波数を探っていた。彼の指先が微かに震えているのを、オルコットは視界の端で捉えていた。実戦経験の浅い者にとって、この静けさそのものが恐怖なのだと分かっていた。誰も彼を責められない。オルコット自身、艦長という肩書きの下で、同じだけの重みを抱えていた。
「機関、いつでも全力出力に切り替えられます」
イズマの声が届く。機関室の彼女の周囲では、冷却系の警告灯がすでに一つ点滅を始めているはずだった。連続隠蔽時間の限界は、艦の熱を外へ逃がせなくなる限界でもある。あと数分もすれば、《薄明》の船体そのものが熱源として夜闇に浮かび上がる。
オルコットは一瞬の判断を迫られた。ここで交戦すれば、作戦全体の秘匿性が崩れる。だが回避すれば、《ライフォス》が本国に不審な同盟艦の存在を報告し、結局は同じ結果を招く。護送作戦は明日決行される。今この場での選択が、そのまま数百人分の命運に直結する。
喉の奥が締めつけられるような感覚があった。オルコットは一度だけ目を閉じ、開いた。
「――跳躍炉、チャージ開始。同時に、警告なしで先制する」
「先制、ですか」
レフの声には確認の響きがあった。彼もまた、この決断の重さを理解していた。
「向こうが報告する前に、通信を潰す。殺すな。無力化するだけでいい」
「了解。主砲、通信アレイに照準変換します」
砲雷長のレフが復唱し、砲塔制御盤に指を走らせる。艦橋の空気が張り詰めた。誰も口を開かない。聞こえるのは、主砲の駆動音がわずかに高まっていく低い唸りと、跳躍炉のチャージが始まったことを示す甲高い電子音だけだった。
《薄明》は短距離跳躍炉のチャージを開始しつつ、同時に主砲を《ライフォス》の通信アンテナ系統へ集中させた。チャージ完了まで七十秒。その間、《薄明》は跳躍による離脱ができない。相手の反撃を受け続けなければならない、動けない七十秒だった。
「距離、六十五キロ。向こう、砲塔が旋回しています」
「主砲、チャージ九十パーセント」
「もう少しだ」
オルコットは自分の声が思ったより掠れているのに気づいた。
「撃て」
連装主砲の斉射が、《ライフォス》の外部通信アレイを正確に打ち抜いた。発射の反動が艦全体を震わせ、床を通して足の裏にまで振動が伝わってくる。同時に警報が二度、短く鳴った。船体そのものへのダメージは最小限に抑えられている。
「命中確認。通信アレイ、破壊。船体への直撃はありません」
「向こう、混乱してます。反撃の構えを見せていますが、通信は完全に沈黙」
「距離、五十八キロ。向こう、主砲発射――着弾まで四秒」
その報告に艦橋が凍りついた。オルコットは肘掛けを握る手にさらに力を込めた。四秒。長すぎる四秒だった。
「対応、間に合いません!」
「――耐えろ!」
鈍い衝撃音が艦体を揺らした。近くで金属が軋むような音がして、天井の照明の一つが一瞬明滅した。だが致命的な手応えはなかった。
「至近弾。船体に軽微な損傷、装甲の一部が変形した程度です。貫通はしていません」
安堵の息が艦橋のあちこちから漏れたが、まだ終わってはいなかった。オルコットの耳には、遠くの区画で消火用の散水装置が短く作動する音がかすかに届いていた。損傷箇所の温度上昇を検知しての自動作動だろう。深刻な被害ではない。それでも、艦が痛みを訴える音には違いなかった。
「機関、出力低下していません。冷却系、一時的に負荷上昇していますが許容範囲内です」
イズマの報告に、オルコットはわずかに肩の力を緩めた。それでもまだ、跳躍炉のチャージは終わっていない。あと二十秒。相手が次弾を撃つまでの猶予と、こちらが逃げられるまでの猶予、そのどちらが先に尽きるかの綱引きだった。
「跳躍炉、チャージ残り二十秒」
「向こう、再装填中。次弾までは間がある」
「このまま跳躍。デルフォス方面へ回り込む陽動航路に乗る」
秒読みのような沈黙が続いた。オルコットは自分の心臓の音が、艦橋の静けさの中でやけに大きく響いているように感じた。
「チャージ完了――跳躍!」
跳躍炉のチャージが完了し、《薄明》は短距離跳躍で戦域を離脱した。視界が一瞬白く歪み、次の瞬間には周囲の星の配置がまったく別のものに変わっていた。《ライフォス》は通信を失ったまま、しばらく立ち往生することになるだろう。
「――被害報告」
「軽微です。向こうの反撃は間に合いませんでした。船体外板の変形が一箇所、燃料は予定より二パーセント多く消費しています」
安堵の空気が艦橋に流れたが、オルコットの表情は硬いままだった。手のひらの汗を、彼はズボンの布地でそっと拭った。誰かが小さく笑い、誰かがその笑いをたしなめるように咳払いをした。緊張が解けたわけではなく、ただ次の緊張へ移る前の、一呼吸分の隙間があっただけだった。
「この一件、連邦は間違いなく報告する。通信は潰したが、艦影と交戦の事実そのものは隠せない」
「作戦への影響は」
「わからん。だが、今更引き返せる段階じゃない」
ダーナは短く息を吐き、計器盤の表示を消灯モードに戻した。艦橋の照明が再び常用の暗さに落ち着き、先ほどまでの張り詰めた空気が、少しずつ日常の緊張へと薄まっていくのが分かった。それでも誰も、完全には気を抜いていなかった。
オルコットは艦橋を一度見渡した。乗員たちの顔には疲労と、まだ収まりきらない興奮の名残があった。誰も死ななかった。それだけが、この夜における確かな成果だった。
若い通信士官が、震えていた指を膝の上でぎゅっと握りしめているのが見えた。オルコットは彼に声をかけようかと思い、やめた。今かける言葉より、無事に持ち場へ戻れたという事実の方が、この男には効くはずだった。
「損傷箇所の詳細を出せ。修理班に回す」
「はい。外板変形一箇所、深さ二センチ程度。予備部材で対応可能です。燃料残量は基準の九十六パーセント」
数字は淡々と読み上げられていく。だがその数字の一つ一つが、たった今まで艦橋を支配していた四秒間の重みを、静かに裏書きしていた。
艦長室に戻ったオルコットは、ラスクへ状況を報告した。返信は簡潔だった。
『了解。予定通り決行する。むしろ、この一件が『同盟の小規模な挑発行為』として処理されれば、護送作戦への警戒が逆に緩む可能性もある。楽観はできないが、悲観する材料でもない』
オルコットは端末を閉じ、窓の外の暗闇を見つめた。船体外板に生じた変形の報告書が、机の端にまだ置かれたままだった。数字にすればわずかな損傷、燃料消費率二パーセントの誤差。だがその数字の裏には、四秒間の沈黙と、七十秒間動けなかった艦と、そこにいた全員の呼吸が詰まっていた。
明日、すべてが動き出す。
オルコットは自分の右手を見た。まだかすかに震えていた。艦長として何度この席に座っても、この震えが完全に消えることはなかった。消えないままでいい、と彼は思っていた。震えなくなった時こそ、部下の命を数字としてしか見られなくなる時だ。
(第18話へ続く)