三週間後、二度目の非公式会合がヴェスタ港で開かれた。今回はセシルの提案で、会合後の時間を長めに取ってあった。表向きの議題は、前回に引き続き航路標識の細部調整という体裁を保っていたが、実務としては初回の会合で片がついていたはずのものだった。誰も、それを指摘しなかった。
給仕エリアではなく、港湾区画の外れにある小さな展望デッキ。灰域の暗闇を一望できる、人気の少ない場所だった。ヴェスタ港の構造上、展望デッキは商業区画から少し離れた位置にあり、休憩に訪れる者も多くない。分厚い強化ガラス越しに、灰域の暗闇と、そこに点在する残骸の淡い光が広がっていた。
そこへ辿り着くまでの通路は妙に長く感じられた。オルコットは半歩後ろを歩きながら、セシルの背中が普段よりも硬く強張っていることに気づいていた。何かを話す決意を固めている人間の歩き方だった。展望デッキに着くと、セシルはしばらくガラスに向かって立ち尽くし、言葉を探しているようだった。
「今日は、時間を作ってくれてありがとうございます」
オルコットがそう切り出すと、セシルは小さく頷いた。
「いえ。――私の方こそ、言わなければいけないことがあります」
その声の硬さに、オルコットは黙って続きを促した。展望デッキの空調が、かすかな低い音を立てて循環している。それ以外に、二人の会話を遮るものは何もなかった。
「ここなら、盗聴の心配は少ないはずです」
セシルは硬い声で言った。オルコットは黙って続きを待った。彼女の横顔は、ガラス越しの暗闇を映して、いつもより青白く見えた。
「三年前――」
セシルが口を開くまでに、長い間があった。彼女は両手を体の前で組み、指先をきつく握りしめていた。
「私はまだ配属されたばかりの新任士官でした。自律核の標的判定アルゴリズムの検証チームに配属されて、最初の大規模実弾試験に立ち会いました。試験海域は灰域の外縁、ケイオン第七集落と呼ばれる小さな入植地の近くでした」
オルコットは息を止めた。手のひらに、じっとりと汗が滲むのを感じた。
「試験は、失敗しました。標的判定システムが、民間の熱源反応を交戦対象と誤認しました。集落の住民、340名。全員が――」
セシルの声はそこで一度途切れた。喉の奥から絞り出すように、彼女は続けた。判明分だけで312名、残る28名は身元の確認すら未だについていないという数字を、彼女は諳んじるように口にした。三年間、頭から離れたことのない数字なのだろう、と、オルコットは思った。
セシルの声が震えた。彼女は一度言葉を切り、深く息を吸ってから続けた。
「私たちは何もできませんでした。試験は自動実行されていて、中断コマンドが間に合わなかった。いえ、正確には、中断コマンドを送る権限を持つ上官が、判断を先送りにしたんです。『まだ誤検知の可能性がある、確定するまで待て』と」
「――待った結果が、あれか」
思わず漏れた声に、セシルが顔を上げた。
「あなたも、知っているんですか」
「私はあの現場に、最初に降り立った人間の一人だ」
沈黙が二人の間に落ちた。灰域の暗闇の中で、同じ光景を見た二人の人間が、初めてその事実を共有していた。ガラスの向こうを漂う残骸の光が、二人の顔にかすかな陰影を落としていた。
「政府は、燃料タンクの爆発だと発表した」
「私も、そう証言させられました。上官の指示で」
セシルの目に涙が滲んでいた。彼女はそれを拭おうともせず、まっすぐにオルコットを見つめていた。
「それ以来、私は倫理制限設計の仕事を続けています。表向きは、二度とあんなことが起きないようにするため。でも本当は――怖いんです。私が設計に関わったシステムが、また同じ過ちを繰り返すんじゃないかと」
「怖い、というのは」
「毎晩、考えるんです。私が今日書いたコードの一行が、いつか誰かを殺すかもしれない。理論上は安全域内に収まっている、と自分に言い聞かせても、理論と現実が違うことを、私はもう知ってしまった」
セシルは一度、深呼吸をしてから続けた。
「同僚たちは誰も、あの事故のことを知りません。私だけが、検証チームの生き残りのような立場です。他のメンバーは、事故の直後に別部署へ異動になりました。異動先で、今どうしているのかも、私は知りません」
「異動、というのは、口封じの意味も」
「わかりません。ただ、あまりに手際が良すぎた。あの規模の事故を起こしておいて、責任者が誰一人処罰されなかった。それどころか、開発計画そのものは中止されないまま、規模を拡大して続いています」
その口調には、怒りよりも深い疲労が滲んでいた。三年間、その事実を一人で抱え続けてきた人間の疲労だった。
「あなたは、その三年間、誰にも話さなかったんですか」
「話せる相手がいませんでした。同僚は口を噤んでいるか、あるいは本当に何も知らないかのどちらかです。家族には、なおさら言えません。もし話せば、巻き込むことになる」
「今日、私に話したのは」
「――わかりません。ただ、あなたも同じ現場を見た人だと知って、初めて、誰かと分かち合える気がしたんです」
その言葉に、オルコットは何も返せなかった。ただ黙って、彼女の隣に立ち続けた。
オルコットはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「セシル、もし――もし国家という枠組み抜きで、暴走した自律核を止める手段があるとしたら。それが今、連邦のどこかに保管されているとしたら、あなたはどうしますか」
セシルは驚いたようにオルコットを見た。
「何を、知っているんですか」
「まだ、噂の段階だ。だが調べている」
「誰が調べているんですか。あなた一人で?」
「私だけじゃない。同盟の参謀本部にも、同じ確信を持つ人間がいる」
セシルは一瞬、警戒するような表情を見せた。当然の反応だった。同盟の参謀本部が絡む話だと知れば、それが自分にとってどういう意味を持つのか、彼女ならすぐに理解できるはずだった。
「私を、利用するつもりですか」
「利用したくはない。だが、あなたの協力が必要になる可能性はある。それは正直に言っておきたい」
「もし断ったら?」
「その時は、今日聞いた話は誰にも漏らさない。あなたの立場を危うくするようなことは、絶対にしない」
セシルはオルコットの目をじっと見つめた。何かを見極めようとするような、長い視線だった。
「随分あっさり、そう約束するんですね」
「約束できないことは、最初から言わない主義です」
セシルは小さく息を吐き、初めてわずかに表情を緩めた。
「――同盟の軍人は、みんなそんな風なんですか」
「私だけかもしれません」
その返答に、セシルはようやく小さく笑った。緊張がほんの少しだけ、ほどけたのがわかった。
長い沈黙のあと、セシルは静かに、しかしはっきりと言った。
「――もしそれが本当にあるなら、国家の誰にも独占させてはいけない。私は、そう思います」
「それは、協力するという意味ですか」
「まだ、わかりません。ただ、あなたの言うことが本当なら――考える価値はあると思います」
窓の外の暗闇に、二人はしばらく並んで立っていた。セシルはやがて、小さく息を吐いてから言った。
「私にできることがあれば、教えてください。ただし、家族や同僚を巻き込むようなことは避けたい」
セシルはそう言って、初めてわずかに肩の力を抜いたように見えた。長い緊張から解放された人間特有の、少し虚脱したような表情だった。
「ありがとうございます。正直、今日ここへ来るまで、何度も帰ろうかと思いました」
「なぜ帰らなかったんですか」
「帰ったところで、この重さから逃げられるわけじゃないと気づいたからです。誰かに話さなければ、私はいずれ潰れていたと思います」
「約束します」
オルコットはそう答えたが、その約束がどこまで守れるものなのか、自分でも確信が持てなかった。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
セシルが静かに尋ねた。
「あなたは、なぜそこまでする気になったんですか。一介の艦長が背負うには、あまりに大きすぎる話だと思いますが」
オルコットはしばらく考えてから答えた。
「あの現場に立った時から、ずっと考えていました。誰かが止めなければ、同じことが繰り返される。それを見て見ぬふりをして生きていくのが、自分にはできそうにない。それだけです」
「信念というより、性分みたいな言い方ですね」
「さっき、あなたにも言われましたよ。信念は後から付いてくる、と」
セシルは小さく笑った。その笑顔には、初めて出会った時とは違う、少しだけ肩の力の抜けた自然さがあった。
「私も、似たようなものかもしれません。ただ怖くて、逃げ場が欲しかっただけかも」
「逃げ場を探すのは、悪いことじゃない」
「そうでしょうか」
「少なくとも、私はそう思います」
二人はしばらく、それ以上言葉を交わさなかった。灰域の暗闇は、いつもと変わらず静かに広がっていた。だがその静けさの奥で、何かが確実に動き始めていた。展望デッキの空調の音だけが、二人の間の沈黙を、静かに埋め続けていた。
(第9話へ続く)