ヴェスタ港を離れ、《薄明》が定期哨戒航路に戻って三日目のことだった。単調な航路をなぞる日々が続き、艦内の空気にも普段通りの弛緩が戻りかけていた。オルコットは艦長席で航海日誌の確認をしながら、ヴェスタ港での一件を頭の隅に追いやろうとしていた。まだ判断材料が足りない。今は目の前の任務に集中すべきだ、と自分に言い聞かせていた。

その日の当直交代は、いつも通り午前六時に行われた。艦橋には夜間当直の疲労した空気がまだ残っており、コーヒーの匂いと、換気ダクトの低い唸りとが混じり合っていた。ダーナが引き継ぎの報告を読み上げる声は、いつもより幾分早口だった。

「特に異常なし。連邦側の哨戒艦、昨日は緩衝線から10,000以上の距離を保ったまま航行してました」

「昨日と打って変わって大人しいな」

「ですね。むしろ今日の方が不気味です」

レフがそう言って伸びをした。艦橋のモニターには、灰域特有の淡い光の粒――残骸の破片が恒星光を乱反射して作る微光――が、いつも通りの静けさで漂っていた。誰もが、その静けさが長くは続かないことを、どこかで予感していたのかもしれない。

「艦長、緩衝線に反応。連邦の哨戒艦、今度は完全に越境してきています」

ダーナの声には珍しく緊張があった。オルコットはホロ図に目を走らせる。連邦の哨戒艦は緩衝線を2,000メートルほど越え、まっすぐ《薄明》へ向かってくる航路を取っていた。艦橋の空気が一瞬で張り詰めた。誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。

「識別は」

「駆逐艦級、《カラバン》。連邦第三方面艦隊所属です」

駆逐艦は同盟のフリゲートよりひと回り大きく、主砲門数も上だ。全長は《薄明》の1.4倍、主砲は連装3基。単艦での正面戦闘になれば、《薄明》に分の悪い相手だった。だが緩衝域での越境は、双方が結んでいる灰域協定への明確な違反になる。協定は形式的なものではなく、破れば国家間の公式な抗議事案になる重みを持っていた。

オルコットは頭の中で、艦隊運用規定の一項を反芻していた。緩衝線を越えられた場合、まず公式警告、それでも退かなければ威嚇射撃、それでも退かなければ実弾での対応も許可される――段階を踏むことが義務付けられている。段階を飛ばせば、どれほど正当な理由があっても、こちらが責任を問われる。規定とはそういうものだった。

「ダーナ、規定通りの手順で進める。焦るな」

「はい」

ダーナの声にも、わずかな硬さが残っていた。艦橋の全員が、自分の持ち場で息を詰めているのが、オルコットには手に取るようにわかった。

「通信を。協定違反である旨、公式に警告しろ」

ダーナが通信を送る。定型の警告文が自動翻訳を通して連邦側へ送信される。返答は数十秒後、素っ気ない機械音声で返ってきた。

『本艦は演習航路の誤差により緩衝線に接近した。直ちに離脱する』

「誤差、ね」

レフが鼻で笑う。だが《カラバン》は離脱するどころか、さらに距離を詰めてきた。レーダー画面の輝点が、じりじりとこちらへ近づいてくる様子を、艦橋の全員が無言で見つめていた。

「艦長、あれは誤差の速度じゃない。加速してます」

「距離は」

「32,000。このままの加速なら、あと九分で20,000を切ります」

イズマが機関出力の状態を読み上げる声が、いつもより硬かった。

「こちらの跳躍炉、チャージ状況は」

「常時待機状態です。ただしフルチャージまでは42秒かかります」

「頭に入れておけ。相手が本気で仕掛けてくるなら、その42秒が命取りになる」

艦橋の空気が一段と張り詰めた。オルコットは自分の心拍が速くなっていくのを自覚しながら、努めて声のトーンを平静に保った。動揺は伝染する。艦長が動揺すれば、艦全体が動揺する。それだけは避けなければならなかった。

モニターに映る《カラバン》の艦影は、じりじりとその輪郭を大きくしていく。主砲の熱源反応が、赤外線センサーにわずかに表示され始めていた。

「主砲、温まってきてますね」

レフが低い声で言った。

「威嚇の範囲内か、それとも」

「今のところは、通常の待機加熱の範囲内です。撃つ気なら、もっと露骨な反応が出ます」

「――威嚇だな」

オルコットは短く息を吐き、決断した。頭の中で、可能な選択肢を素早く並べる。無視すればさらに踏み込まれる。過剰な反応をすれば、こちらが協定違反の口実を与えることになる。均衡を保ったまま、明確な意思だけを示す必要があった。

「砲雷、警告射撃。進路上、船体には当てるな」

「了解」

レフの手が滑らかに動き、副砲の一門が火を噴いた。艦体を揺らす発砲の反動が、艦橋の床を通してオルコットの足の裏にまで伝わってくる。実体弾の曳光が《カラバン》の進路上、船体まで200メートルの空間を横切る。この距離での警告射撃は、双方の艦にとって「次は当てる」という明確な意思表示になる。

弾着の閃光が外部カメラの映像に一瞬だけ映り込み、静止した。艦橋の誰もが、その後の《カラバン》の反応を息を詰めて見守った。

沈黙が数秒続いた。艦橋の全員が、モニターの《カラバン》の航跡表示から目を離せずにいた。誰かの喉が鳴る音が、やけに大きく響いた気がした。

《カラバン》は減速し、やがて緩衝線の向こうへと引き返していった。速度計の数値が、ゆっくりと下がっていくのを、オルコットは食い入るように見つめていた。

「……戻りました」

ダーナの声に、艦橋の空気がわずかに緩む。誰かが小さく息を吐き出す音があちこちから聞こえた。だが誰も、完全には気を抜かなかった。オルコット自身、肘掛けを握る手にまだ力が入ったままなのに気づいて、ゆっくりと指をほどいた。

「よし。記録を残せ。時刻、位置、相手の識別、こちらの対応。全部だ」

「了解しました」

「レフ、弾薬の消費数も忘れず記録に。実体弾一発、単価は正確な数字を経理に問い合わせておけ」

「……こういう時ぐらい大目に見てくださいよ」

「記録は記録だ」

レフが渋々端末に向き直る。艦橋の緊張がゆっくりとほどけていく。誰かが小さく笑い、それにつられて別の誰かも表情を緩めた。緊張の後には、決まってこういう間の抜けたやり取りが挟まる。それもまた、《薄明》の艦橋の流儀だった。

「艦長、本国への報告、標準書式でいいですか」

「いや、今回は詳細に。相手の加速パターン、主砲の熱源反応の推移、こちらの対応までの時間、すべて数値で残せ。感覚的な表現は使うな」

「了解です」

ダーナがそう答えながら、ふと手を止めた。

「艦長、正直に聞きますけど……これ、来週も同じことが起きると思いますか」

オルコットはしばらく黙ってから答えた。

「わからん。だが、備えておいて損はない」

だがオルコットの胸の内には、別の違和感が残っていた。

この三年、灰域では小競り合いなど数えるほどしかなかった。それが技術交流会議の直後にこれだ。偶然にしては、あまりにタイミングが良すぎる。

「ダーナ、本国への報告にはひとつ付け加えてくれ。『連邦側の越境行動は、会議直後というタイミングを鑑みるに、単なる演習誤差とは考えにくい』と」

「了解しました、艦長」

ダーナは報告書の下書きを読み上げながら、途中で手を止めた。

「艦長、これ、参謀本部にも直接送りますか。定型のルートだと、本国の方面司令部止まりになりますが」

オルコットは少し考えてから頷いた。

「ラスク参謀にも写しを。彼にも関係がある話だろう」

「わかりました」

当直交代後、艦内食堂ではその日の出来事が早速話題になっていた。非番の乗員たちが、警告射撃の瞬間の緊張感を大げさに語り合い、レフが「艦長は表情ひとつ変えなかった」と自慢げに吹聴して回っているのを、オルコットは通りすがりに聞いて苦笑した。実際には、肘掛けを握る手が白くなるほど力を込めていたことを、彼は誰にも言わなかった。

その夜、艦長室でオルコットは一人、報告書を書き終えた後もしばらく端末の前から動けずにいた。窓の外に広がる灰域の暗闇を、彼はじっと見つめていた。今日の《カラバン》の動きは、単なる示威行動にしては、あまりに引き際が良すぎた。まるで、こちらの反応そのものを試すための行動だったかのように。相手はどこまで踏み込めば、こちらが実弾を撃つのか。その一点だけを測っていたように思えてならなかった。

もしそうだとすれば、今日得られたデータは、連邦側にとって十分な収穫だったはずだ。こちらの警告射撃までの距離、反応速度、判断の基準。すべてが、次に踏み込むための材料として、連邦のどこかの解析部門に送られていくのだろう。オルコットはその想像に、ひどく後味の悪いものを感じた。

三年前のあの日のことを、彼はまだ誰にも話していない。連邦が極秘に行った自律核の実弾試験――その巻き添えで消えた小さな入植地のことを。あの事故もまた、同じように「データ収集」の名の下に引き起こされたものだった。人の命が、測定値の一部として扱われる。その恐ろしさを、オルコットは誰よりもよく知っていた。

灰の中に立ち尽くしたあの光景を、彼は今でも夢に見る。今夜もまた、その夢を見るのだろうか。オルコットは端末の光を落とし、寝台に体を横たえた。艦の心臓部から伝わる微かな振動だけが、暗闇の中で規則正しく続いていた。眠りに落ちる直前、彼の脳裏に浮かんだのは、なぜかセシル・マーロウの、あの一瞬こわばった表情だった。

(第4話へ続く)