《薄明》を中心とする小規模艦隊――巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、そしてマグダの残り火隊――は、ノクターンへ向け、可能な限りの速度で進んだ。跳躍を重ねるたびに、艦内の重力場がわずかに揺らぎ、乗員たちの間にも、疲労の色が濃くなっていった。

「――ヴィスの部隊より先に、到着できるか」

「際どいところです」

レフが、航路計算を確認しながら答えた。彼の目は、計器の数値を何度も往復していた。

「向こうは正規軍の精鋭、我々より高性能な艦を保有しています。単純な速度勝負では、分が悪いかもしれません」

「距離は」

「跳躍残り四回、およそ十二時間の航程です。連邦艦隊の想定進路と比較すると、恐らく、彼らの方が二時間ほど早くノクターンに到達します」

オルコットは、その数字を、重く受け止めた。二時間という差は、地上での防衛準備において、決定的な意味を持ちかねない時間だった。彼は、艦橋の壁に取り付けられた時計を見つめた。秒針が刻む一つ一つの音が、いつもより重く、耳に響いた。

艦橋の照明は、通常運用の白色光から、緊急態勢を示す薄い赤色へと切り替わっていた。その光の中で、乗員たちの顔が、いつもより一段と険しく見えた。オルコットは、その赤い光を見つめながら、これから先の十二時間が、これまでの人生の中でも、最も長い時間になるだろうという予感を覚えた。

「――イズマ、跳躍炉の負荷は」

機関室からの通信に、イズマの疲れた声が返ってきた。

「かなり無理をさせています。連続跳躍による冷却系の負担が、想定より大きい。ですが、あと二回の跳躍なら、何とか耐えられるはずです」

「頼む。少しでも早く、ノクターンに着きたい」

「――わかってます、艦長。うちの機関が音を上げるまで、やってみせます」

オルコットは、通信を切った後、艦橋の乗員たちの顔を、一人ずつ見渡した。誰もが、これから訪れる戦いの重さを、すでに覚悟している表情をしていた。

セシルは、艦橋の隅で、静かに状況を見守っていた。彼女の前には、連邦艦の識別データベースが表示された端末が置かれていた。

「――私も、戦力になれることがあれば」

「今回は、艦に残ってくれ」

オルコットは、静かに、しかし固く言った。

「もし俺たちが敗れても、あなたが生き残れば、いつかこの真実を語り継ぐことができる」

セシルは、何かを言いかけたが、やがて頷いた。

「――わかりました。ただし、生きて戻ってきてください」

「約束する」

セシルは、オルコットの手を強く握った後、艦橋の隅の端末に向き直った。彼女なりの覚悟の示し方が、その背中から伝わってきた。オルコットは、しばらくその背中を見つめてから、艦長席に戻った。

「――ダーナ、マグダ隊との合流状況は」

「順調です。残り火隊の輸送艇二隻が、艦隊後方に追従しています。地上降下の準備は、すでに整っているとのことです」

「マグダは、何と言っている」

「『院長には世話になった。今度は俺たちが恩を返す番だ』と、そう言っていました」

オルコットは、小さく笑った。マグダという男の、不器用だが筋の通った義理堅さを、彼はこれまでの付き合いの中で、幾度となく見てきた。彼らの助力がなければ、この作戦はここまで到達できていなかっただろう。

艦隊は、これまでで最も緊迫した航路を進んだ。跳躍を重ねるたびに、ノクターンへの距離が縮まっていく。艦内の食堂では、当直を外れた乗員たちが、束の間の休息を取りながらも、誰もが押し黙ったまま、これから訪れる戦いに備えていた。

オルコットは、艦長室に一人こもり、これまでの作戦の記録を、もう一度読み返した。デルフォスでの奪取作戦、鎮魂会への引き渡し、幾度もの逃避行――積み重ねてきた選択の一つ一つが、この最後の戦いに向けて、彼を導いてきたように思えた。彼は、机の引き出しに仕舞い込んだ乗員名簿を、そっと取り出した。ダブレ、トマ、カロン、サナ――これまで失われた名前の連なりを、彼は指先でなぞった。

「――これ以上、名前を増やしたくはない」

彼は、誰に言うともなく呟いた。だが、これから始まる戦いが、犠牲なしに終わるとは、彼自身、到底信じられなかった。艦長としての経験が、そのことを、痛いほど教えてくれていた。

彼は、名簿を静かに閉じ、艦橋へと戻った。窓の外には、跳躍の合間に見える、灰域特有の淡い光の帯が、ゆっくりと流れていた。それは、いつもと変わらない光景のはずだったが、この航海の緊張感の中では、まるで別の宇宙を進んでいるかのような、奇妙な感覚を彼に与えていた。

艦橋に戻る途中、彼は食堂の前を通り過ぎた。中から漂ってくる、温めなおしただけの簡素な携行食の匂いが、鼻先をかすめた。誰かが小さく咳払いをする音、金属製の食器が触れ合う小さな音――そうした日常のかけらが、この非日常の航海の中でも、確かに息づいていることに、彼はわずかな安堵を覚えた。

跳躍を終えるたびに、艦内には短い静寂が訪れた。乗員たちは、次の跳躍までのわずかな時間を使い、装備の点検や、束の間の水分補給に充てていた。オルコットは、艦長席に座ったまま、窓の外に流れる灰域の光を見つめ続けた。あと何回の跳躍で、ノクターンに到達するのか。頭の中で繰り返す計算が、彼の緊張を、少しずつ研ぎ澄ませていった。

「――前方に、艦隊反応!」

レフの声が、緊張とともに響いた。

「識別、連邦特務局直轄部隊。巡洋艦2隻、駆逐艦6隻。加えて――」

「加えて?」

「小型の無人艦、4隻を確認。自律無人艦の実戦配備部隊と思われます」

艦橋に、これまでとは違う種類の緊張が走った。人間の乗る艦との戦闘とは、根本的に異なる相手が、初めて眼前に現れようとしていた。オルコットは、無人艦のシルエットを、艦橋のスクリーンに映し出させた。人間の設計思想とは、どこか異質な、無駄のない、それでいて不気味な形状をしていた。

艦橋の誰もが、しばらくの間、そのスクリーンから目を離せずにいた。誰かが小さく息を呑む音が、静まり返った艦橋に、やけにはっきりと響いた。人が乗っていないという事実だけで、これほどまでに冷ややかな威圧感を放つものかと、オルコットは、あらためて思い知らされた。

セシルが、その映像を見つめながら、硬い声で分析を始めた。

「――船体形状から見て、恐らく、まだ試作段階の砲撃支援型です。人間の乗員がいない分、居住区画や生命維持設備が省かれ、その分、装甲と武装に振り分けられています」

「弱点は」

「判断アルゴリズムの反応速度が、状況によっては、人間の熟練兵より遅れる場合があります。特に、複数の脅威が同時に発生した際の優先順位付けに、まだ課題が残っているはずです」

「――つまり、混戦に持ち込めば、勝機はある、ということか」

「可能性はあります。ただし、確実ではありません。あくまで、設計段階での懸念事項に過ぎませんから」

オルコットは、その情報を、頭の中に刻み込んだ。セシルの知識が、これから始まる戦いにおいて、どれほどの意味を持つことになるか、まだわからなかった。だが、少なくとも、闇雲に戦うよりは、幾分かの勝算が見えた気がした。彼は、彼女に短く礼を言い、艦橋の全乗員に向けて、これから起こりうる展開を、簡潔に伝えた。誰もが、無言のまま、それぞれの持ち場で、頷きを返した。

艦橋の空気が、一段と張り詰めた。誰もが、次に発せられる艦長の言葉を待っていた。オルコットは、拳を握りしめたまま、しばらく沈黙していた。

「――間に合わなかったか」

オルコットは、奥歯を噛みしめた。連邦の強襲部隊は、すでにノクターン星系への進入を開始していた。スクリーンに映るノクターンの氷惑星は、これまで彼が想像していたよりも、遥かに小さく、そして脆く見えた。あの表面のどこかに、鍵を守り抜こうとする鎮魂会の人々と、まだ何も知らない多くの命が息づいている。その事実が、彼の中の焦燥を、さらに強く駆り立てた。

「全艦、最大戦速!ノクターンの防衛に間に合わせろ!」

灰域の外れ、氷に閉ざされた聖地を巡る、最後の、そして最も苛烈な戦いが、始まろうとしていた。

「――艦長、マグダ隊長より通信です」

通信士の声に、オルコットはスピーカーに向き直った。

「――マグダだ。地上への降下準備、いつでもいける。指示をくれ」

「敵艦隊が、すでに星系に進入している。恐らく、地上への降下部隊もすでに展開を始めているはずだ。急ぐ必要がある」

「了解した。うちの連中は、いつでも飛び降りる覚悟はできてる。院長を、そして鍵を、必ず守り抜く」

オルコットは、その言葉に、静かに頷いた。

「――頼む」

通信を切った後、オルコットは、艦橋の乗員たち全員に向けて、静かに、しかし力強く告げた。

「――これより、《薄明》は戦闘態勢に入る。相手は正規軍の精鋭と、未知の自律兵器だ。だが、俺たちには、これまで積み重ねてきた理由がある。名もなき者たちの死を無駄にしないため、鍵を守り抜くため、そして、これから先を生きるすべての人のため――全員、持ち場につけ!」

艦橋の乗員たちが、一斉に応じた。その声には、恐れよりも、確かな決意が滲んでいた。

セシルは、艦橋の隅から、オルコットの背中を見つめていた。彼女の瞳には、不安と、それを上回る信頼の色が浮かんでいた。

「――必ず、戻ってきてください」

その呟きは、艦橋の喧騒にかき消され、オルコットの耳には届かなかった。だが、彼女はそれでも、静かにその言葉を、胸の中で繰り返し続けた。灰域の暗闇の向こうに、ノクターンの氷惑星が、これから訪れる戦いの舞台として、静かに、しかし確実に、その姿を現しつつあった。

(第80話へ続く)