ノクターンから帰投した《薄明》が、係留支柱に艦体を固定し終えるより先に、オルコットの端末には緊急の呼び出しが入っていた。ドックの金属音と作業員たちの声が、まだ艦内に反響している。整備班が外殻の焼け跡を指差しながら何かを言い合っているのが視界の端に映ったが、今はそれに構っている余裕がなかった。降下用のタラップに足をかけたところで、彼はその報告を読み、足を止めた。
出迎えたダーナの表情には、隠しきれない緊張があった。普段は淡々と数字を並べる副長が、言葉を選ぶように一拍置いてから口を開いた。彼女がこれほど言葉に詰まる姿を、オルコットは久しく見ていなかった。
「艦長、辺境での戦闘――撃破したはずの敵艇の一隻から、生存者が救出されていたことが判明しました」
オルコットは、タラップの途中で立ち止まったまま、ダーナを見返した。ドックの照明が、彼女の頬に硬い影を落としていた。頭上では、クレーンが別の艦の補給コンテナを吊り上げる音が、規則正しく響いていた。日常の作業音と、いま告げられた報告の重さとの落差に、オルコットは一瞬、めまいにも似た違和感を覚えた。
「――生存者、だと」
自分の声が、思ったより低く出たことに、オルコット自身が驚いた。灰域での交戦は、常に「撃破した」「撃破されなかった」という二値の報告で処理されてきた。生きて捕虜になる者も、逆に自分たちの側にも、これまでほとんどいなかった。そこに第三の答えが紛れ込むことを、彼はどこかで想定していなかった。
「マグダの部隊が撃破したと報告した敵艇のうち一隻、実際には航行不能になっただけで、乗員の一部が脱出ポッドで漂流していたようです。その後、偶然通りかかった連邦の哨戒艦に救助されたと」
偶然、という言葉が、やけに重く響いた。灰域は広大で、脱出ポッド一つが漂流したところで、発見される確率は決して高くない。座標のずれがわずか数百キロあれば、誰にも発見されないまま、酸素が尽きて終わっていたはずだ。だがゼロでもない。戦場における「万に一つ」は、いつも一番都合の悪いタイミングで現実になる。オルコットは、それを何度も経験してきた。
「その生存者が、何を証言したかは」
「不明です。ただ、救助されたのが連邦の哨戒艦である以上、少なくとも『鎮魂会の巡礼艇を護衛していた同盟艦との交戦』という事実は、連邦側に伝わったと考えるべきです」
オルコットの背筋に、冷たいものが走った。艦内の暖房は正常に稼働しているはずなのに、うなじのあたりだけが冷えていく感覚があった。あの日、彼らが命懸けで守り抜いた五分間――巡礼艇を逃がすために稼いだ、あの短くも長い時間の意味が、根底から揺らぎ始めていた。あの五分間のために失われた命の重さを、彼はまだ昨日のことのように覚えている。
会議室に移動する間も、オルコットは無言だった。壁のパネルに映るハルシオン周辺の航路図が、いつもより不吉に見えた。廊下を歩く自分の足音だけが、やけにはっきりと耳に残った。着席するのを待たず、ラスクが、深刻な表情で会議に加わった。彼にしては珍しく、資料を持つ手の指先がわずかに強張っていた。
「これは、致命的な情報漏洩になりかねません。鎮魂会の巡礼艇を、同盟軍が護衛していた――その事実だけでも、連邦は『同盟が鎮魂会と結託して、何かを匿っている』という核心に近づくことになります」
「核心、というのは」
「鍵そのものです。まだ具体的な物証には辿り着いていないでしょう。ですが、疑いの種は、すでに蒔かれたと見るべきです。種は、蒔かれてしまえば、あとは時間が育てるだけです」
ドーベル少将が、遅れて入室してきた。いつもより足取りが重く、椅子に腰を下ろす前から、すでに疲労が滲んでいた。年齢のせいだけではないだろう、とオルコットは思った。
「院長には、伝えたのか」
「すでに連絡済みです。院長は、鍵の保管場所をさらに厳重にする準備を進めています」
ラスクの返答に、少将は小さく頷いた。だがその頷きは、安堵ではなく、次の憂慮を飲み込むための間でしかなかった。会議室の空気は、誰かが口を開くたびに、じわじわと重くなっていくようだった。
オルコットは、テーブルの上で拳を握りしめた。爪が掌に食い込む感触が、かえって思考を落ち着かせてくれた。あの日、五分間を耐え抜いて守り切ったはずの秘密が、生存者一人の存在によって、崩れ去ろうとしていた。たった一人。名前も知らない誰か一人が、脱出ポッドの中で生きて漂流していたというだけで、これまで積み上げてきたものすべてが、灰域の暗闇に呑まれかねない。彼はその「たった一人」を憎む気にはなれなかった。生き延びようとするのは、当然のことだ。憎むべきはむしろ、その生存という当然の出来事一つで揺らいでしまう、自分たちの築いてきたものの脆さの方だった。
「――ヴィスは、これをどう使うと思う」
「間違いなく、鍵の存在そのものを暴こうとするでしょう」
ラスクは、静かに、しかし確信を持って言った。彼の口調には、マルコ・ヴィスという男に対する、奇妙な敬意めいたものすら滲んでいた。敵対する相手であっても、その執念深さと合理性だけは、正しく評価しておかねば判断を誤る、というのが彼の流儀だった。
「そして彼が鍵の存在を掴めば、それは連邦政府にとっても、自分たちの隠蔽の歴史を暴かれることを意味する。連邦上層部は、これをどう処理するか、難しい決断を迫られるはずです」
「隠蔽するか、それとも」
「それとも、真実を伏せたまま、我々を一方的な侵略者に仕立て上げるか。おそらく、後者を選ぶでしょう」
オルコットは、その予測に、反論できる材料を何一つ持たなかった。国家というものが、自らの過ちを認めるより、他者を悪役に仕立て上げる方をいつも選んできたことを、彼はこれまでの数年間で嫌というほど学んでいた。三年前の実弾試験事故が、いまだに公式には「未確認の事故」としてしか扱われていないことが、その何よりの証拠だった。
「もし後者なら、次に何が起きる」
「連邦の国内世論を、対同盟の方向に一気に傾ける材料として使われるでしょう。生存者の証言は、事実の断片としては正しくとも、伝えられ方次第でいくらでも姿を変えます」
ドーベル少将が、深く息を吐いた。
「我々にできることは」
「せいぜい、次の動きに備えることだけです」
会議室の窓の外、灰域の暗闇に、新たな不穏の影が差し込んでいた。星々の瞬きは変わらず静かだったが、その静けさの奥で、何かが着実に動き出しているのを、オルコットは肌で感じ取っていた。会議が終わっても、その予感は消えることなく、彼の胸の奥に重く沈み続けていた。
会議が解散したあと、オルコットは一人、艦長室に戻った。デスクの端末には、まだ処理していない補給申請や整備報告が山のように溜まっていたが、手をつける気力が湧かなかった。椅子に深く腰を下ろし、窓の外に広がる無数の光点――近隣の停泊艦や、ドックの照明が作る人工の星座を見つめた。
ドアが軽くノックされ、ダーナが顔を覗かせた。
「艦長、少しよろしいですか」
「入れ」
「乗員たちの間にも、噂は広まり始めています。生存者の件、公式には伏せていますが、ドックの作業員経由で漏れるのは時間の問題かと」
「隠しきれないだろうな」
「どこまで、乗員に説明しますか」
オルコットは、しばらく考えてから答えた。
「事実は伝える。ただし、憶測は含めない。俺たちが守ったものの意味は変わらない、とだけ言っておけ」
「――正直に言えば、私も少し怖いです」
ダーナが、珍しく本音を漏らした。
「あの五分間、輸送船は大破するまで持ちこたえました。乗員の中には、二度と艦に戻れなかった者もいます。彼らの名前と最期の状況は、艦の記録簿にすべて残しています。あの犠牲が、たった一人の生存者の証言一つで、意味のないものにされてしまうんじゃないかと」
「意味は変わらない」
オルコットは、静かだが強い口調で繰り返した。
「あの五分間で、俺たちは巡礼艇二隻と、その中にいた乗員を無傷で逃がした。その事実は、誰にどう伝えられようと変わらない。伝えられ方が変わるだけだ」
「――そうですね。艦長の言う通りです」
ダーナは、小さく頷いて部屋を出て行った。一人になった艦長室で、オルコットは、いつかこの秘密の重さに、乗員全員が押し潰されてしまう日が来るのではないか、という漠然とした不安を拭えなかった。
端末には、まだ処理していない書類が並んでいた。今回の哨戒任務にかかった燃料費だけで、およそ十八万クレジット。修理見積もりは、外殻の再生装甲だけで四万クレジットを超えるという。数字はいつも冷淡で、何も語らない。だが、その数字の裏側に、あの五分間を生き延びられなかった乗員たちがいたことを、オルコットは決して忘れないと決めていた。金額も、距離も、時間も、すべて具体的な数字として記録される。感傷に流されず、しかし記憶からは消さない。それが、彼なりの弔い方だった。
窓の外、係留中の他艦の灯りが、規則正しく明滅していた。誰かが夜間整備をしているのだろう。艦隊という組織は、こうした無数の小さな作業の積み重ねで、辛うじて形を保っている。その脆さと強さの両方を、オルコットは今更のように思い知らされていた。
彼は端末の隅に表示された、次の哨戒任務のスケジュールにも目を通した。三日後、灰域境界線への再展開が予定されている。今度の任務でも、また誰かが名前を持つ記録として刻まれることになるのかもしれない。そう考えると、椅子の背もたれに体を預ける自分の呼吸が、いつもより重く感じられた。
だが今はまだ、その日ではない。彼は端末の画面を閉じ、しばらくの間、灰域の暗闇だけを見つめ続けた。
(第62話へ続く)