損傷した輸送船を残し、一行はマグダの艦に乗り換えて、ノクターンへの最後の行程を進んだ。

大破した輸送船は、マグダの艦に曳航される形で、後方の中継地点へと運ばれていくことになった。老船長は、離れゆく自分の船を、複雑な表情で見送っていた。

「あの船とも、長い付き合いだった。だが、また修理して使ってやる」

「――世話になりました」

「なに、これも仕事のうちだ。それより、あんたたちは先を急げ」

老船長の言葉に、オルコットは深く頭を下げた。名も知らぬ、いや、名を尋ねることさえしなかったこの船乗りが、この移送計画にどれほど貢献してくれたか、彼は改めて思い知らされた。

マグダの艦は、輸送船よりも遥かに整備の行き届いた船体だった。残り火隊の艦らしく、随所に実戦用の改造が施されていたが、それでも、負傷者を休ませるための最低限の設備は確保されていた。オルコットは、乗り換えの慌ただしさの中で、負傷した乗員たちが無事に運び込まれるのを見届けてから、ようやく自分自身の疲労に気づいた。この数日間、まともに眠っていなかったことを、彼は今更ながら思い出した。

マグダの艦に乗り換えた一行は、残る跳躍を経て、ついに目的地へと到達した。

ノクターンは、恒星系の外れに浮かぶ、小さな氷惑星だった。主星の光すら弱々しく、惑星表面は青白い氷に覆われている。鎮魂会の古参司教たちが集う本拠地は、その地下深くに広がる、天然の洞窟を利用した聖堂群だった。着陸船の窓から見えるその光景に、オルコットは、この場所が選ばれた理由を、直感的に理解した。誰も好んで訪れることのない、辺境も辺境の氷の惑星。ここでなら、確かに何もかもを秘匿できるだろう。

「――ようこそ、ノクターンへ」

出迎えた古参の司教の一人が、静かに一行を迎え入れた。彼の顔には、深い皺と、それに反して穏やかな眼差しが宿っていた。長年、この氷惑星の静寂の中で祈りを捧げてきた者だけが持つ、独特の落ち着きだった。

地下へと続く長い階段を降りていくと、気温は徐々に安定し、代わりに、独特の静けさが増していった。壁面には、長い年月をかけて彫られたのであろう、無数の祈りの言葉が刻まれている。オルコットは、その一つ一つの文字を目で追いながら、この場所に積み重ねられてきた時間の長さを、肌で感じ取っていた。

セシルもまた、その光景に圧倒されている様子だった。

「――こんな場所が、存在していたんですね」

「連邦の記録にも、同盟の記録にも、ほとんど残っていない場所らしい」

「それだけ、徹底して秘匿されてきたということですか」

「ああ。だからこそ、鍵を託すのに、これ以上の場所はないんだろう」

階段を降りきったところで、一行は聖堂群の入り口に到達した。冷たい岩肌から染み出す微かな水滴の音だけが、静寂の中に響いていた。

グラン院長は、すでに別便で到着しており、聖堂の奥でオルコットたちを待っていた。

「――ご苦労をおかけしました。道中、危険な目に遭われたと伺いました」

グラン院長の声には、深い懸念が滲んでいた。マグダから既に、伏兵との交戦の報告を受けていたのだろう。

「輸送船が大破しましたが、負傷者に死者は出ていません」

「――それは、不幸中の幸いです。ですが、この一件は、我々にとっても重い意味を持ちます。連邦の追及が、想像していた以上に、速く、そして執拗であるという証拠です」

グランの表情が、一段と険しくなった。

「鍵は、無事です」

アダムが、鍵の入った箱を丁寧に運び入れた。院長は、それを深い祈りとともに受け取った。その手つきには、長年この仕事に携わってきた者だけが持つ、静かな重みがあった。

「この聖堂の最奥に、新たな安置所を用意しています。ここならば、たとえ連邦の目が鎮魂会全体に向けられようとも、この場所の存在に辿り着くことは、まず不可能でしょう」

「安置所の警備は、どのような体制で」

オルコットは、実務的な質問を投げかけずにはいられなかった。艦長としての性分が、こういう場面でも顔を出す。

「常時、古参の司教が三名、交代で見守っています。武装した護衛ではなく、あくまで祈りを捧げる者としての立場です。それが、この場所の性質に相応しいと考えています」

「武装しない、ということですか」

「ええ。武力で守るのではなく、存在そのものを知られないことで守る。それが、我々の流儀です」

その答えに、オルコットは一瞬戸惑いを覚えたが、すぐに納得した。武装した警備は、かえってこの場所の存在を目立たせてしまう。何もない静寂こそが、最大の防御になるという発想は、軍人である彼にとって新鮮でありながら、同時に深く頷けるものだった。

「――安心しました」

オルコットは、心からそう思った。長い道のりの果てに、鍵はついに、最も安全な場所へと辿り着いた。デルフォスから運び出したあの夜から、幾度もの危険を潜り抜けてきた。灰域での睨み合い、誤射から始まった大規模な交戦、そして辺境での伏兵――その一つ一つを乗り越えて、ようやくこの瞬間にたどり着いたのだと思うと、彼の胸に、静かな達成感が広がった。

グラン院長は、オルコットとセシルを見つめ、静かに言った。

「あなたがたは、十分すぎるほどの働きをしてくれました。もう、この件から手を引いても、誰もあなたがたを責めはしないでしょう」

「――そうしたい、とは思いません」

オルコットは答えた。

「両国の対立は、俺たちが鍵を託した後も、止まるどころか激しくなっています。この先、何が起きるのか、俺は見届けたい」

院長は、しばらく沈黙した後、小さく頷いた。

「――では、これからも、この重荷を分かち合っていただけますか」

「もちろんです」

セシルもまた、静かに頷いた。

「私も、同じ気持ちです。ここまで来て、目を逸らすことはできません」

グラン院長は、少し驚いたような表情を浮かべた。

「連邦の技術士官であるあなたが、ここまで深く関わることに、迷いはないのですか」

「――迷いは、いつもあります」

セシルは、正直に答えた。

「祖国を裏切っているという自覚も、消えることはありません。それでも、目を背けることの方が、私にはもっと耐えられません」

その言葉に、グラン院長は深く頷いた。

「――その葛藤こそが、あなたを信頼するに足る証だと、私は思います。迷いなく行動する者より、迷いながらもなお正しいと信じる道を選ぶ者の方が、私は信用に値すると考えています」

グラン院長は、二人の顔を交互に見つめ、それから、聖堂の奥にある小さな祭壇へと視線を移した。そこには、無数の蝋燭が静かに灯されていた。

「この聖堂では、戦没者と共に、廃棄された自律核のためにも祈りを捧げます。いずれ、この鍵が本当に必要とされる日が来るとすれば、それは、両国の対立が、何らかの形で終わりを迎えた時でしょう。それまで、我々はここで、ただ静かに、祈りと共に鍵を守り続けます」

その言葉は、オルコットの胸に、静かに、しかし深く刻まれた。彼は、この聖堂の静けさが、これから先の長い年月を経ても、変わらずに保たれることを、切に願った。

「院長、一つだけ、伺ってもいいですか」

オルコットは、静かに口を開いた。

「あなたの弟子筋にあたる若い修道士たちは、この鍵の存在を、どこまで知っているのですか」

グランは、少し考えるような間を置いてから答えた。

「ごく一部の、限られた者だけです。アダムもその一人です。ただ――正直に申し上げれば、私が去った後、この重荷をどう継承していくかは、まだ明確な答えを持ち合わせていません」

「継承、ですか」

「弔いというものは、一代で完結するものではありません。私の後を継ぐ者たちが、この鍵をどう扱うか、その判断は、いずれ私の手を離れることになります。それが、少し怖くもあります」

グランの言葉には、老いた者だけが持つ、静かな不安が滲んでいた。オルコットは、その言葉の裏に、いつか教義そのものが変容していく可能性を、微かに感じ取った。だが、それが具体的にどのような形を取るのか、今の彼には、想像することさえできなかった。

聖堂の奥、静かに灯る蝋燭の明かりの中、鍵は新たな安息の地を得た。だが、灰域を挟んだ両国の対立は、もはや誰にも止められない速度で、破局へと向かって進み続けていた。オルコットは、氷惑星の地下に響く静かな祈りの声に耳を傾けながら、これから先に待ち受けるであろう困難を、静かに、しかし確かな覚悟と共に見据えていた。

聖堂を後にする前、オルコットとセシルは、しばらく祭壇の前に並んで立ち、無言のまま蝋燭の炎を見つめていた。この長い道のりの果てに辿り着いたこの静寂が、二人にとって、ほんの束の間の安らぎとなった。だが、その安らぎがどれほど続くのか、二人はまだ知る由もなかった。

やがて、二人は聖堂を後にし、地上へと続く長い階段を、ゆっくりと上っていった。氷惑星の淡い光が、階段の先に微かに差し込んでいる。その光を見つめながら、オルコットは、次にこの場所を訪れる日が、どうか穏やかな知らせと共にあってほしいと、静かに願わずにはいられなかった。

階段を上りきったところで、マグダが待っていた。

「――終わったか」

「ああ、終わった」

「なら、帰るとしよう。灰域は、俺たちの帰りを待ってはくれないだろうからな」

マグダの言葉に、オルコットは小さく笑った。束の間の静寂を後にして、また、あの緊張に満ちた場所へ戻らねばならない。だが、鍵を無事に届け終えたという事実だけは、確かに彼の胸の中に、揺るぎない支えとして残っていた。

(第61話へ続く)