グラン院長からの要請で、オルコットは再び非公式に《静誦》を訪れた。

《静誦》に足を踏み入れるのは、久しぶりのことだった。あの巡礼船の内部は、相変わらず静謐な空気に満ちていた。石造りの通路に灯る燭台の光、どこからともなく聞こえる低い読経の声。艦隊戦の喧騒に慣れきった耳には、その静けさが、かえって落ち着かないほどだった。オルコットは、案内する若い修道士の後について、院長の私室へと向かった。

途中の礼拝堂では、数名の修道士たちが、弔いの祈りを捧げていた。灰域衝突事件で失われた者たちのためだろうか、それとも、日々失われ続ける名もなき自律核のためだろうか。オルコットには判別がつかなかったが、その両方を等しく弔うのが、この修道会のあり方なのだと、彼は理解していた。廃棄された自律核にすら祈りを捧げるという発想は、同盟軍の実務家である彼にとって、最初は奇妙に映ったものだった。だが今では、その姿勢にこそ、この組織の芯の強さがあるのだと感じるようになっていた。

「――鍵の保管場所を移すことを、検討しています」

グランは、以前より幾分やつれた様子で言った。目の下には、隠しきれない疲労の色が濃く滲んでいる。オルコットは、この老院長が、この数ヶ月でどれほどの重圧を背負ってきたのかを、改めて思い知らされた。

「連邦の目が、着実にこちらへ向き始めている。今の巡礼船での保管は、もはや安全とは言えません」

「移送先の当ては」

「灰域から遠く離れた、鎮魂会の本拠地――辺境の巡礼聖地『ノクターン』を考えています。そこには、我々の古参の司教たちが集う、最も秘匿性の高い施設があります」

「ノクターン、ですか。名前は伺ったことがあります」

「表向きは、ただの巡礼聖地です。年に一度、少数の巡礼者が訪れるだけの、辺境も辺境の場所。連邦はおろか、同盟の一般の記録にも、詳しい位置情報はほとんど残っていません」

「距離は」

「ここから、短距離跳躍を六回ほど要する距離です」

オルコットは地図を思い浮かべた。それだけの距離を移動するとなれば、当然、護衛が必要になる。だが大規模な護衛は、かえって連邦の目を引く。跳躍炉のチャージ時間を考えれば、六回の跳躍だけでも、相応の時間と、それに伴う危険が生じることは明らかだった。

「跳躍のたびに、無防備な時間が生じます。その間隔は」

「短くて数時間、条件によっては半日以上、無防備な状態が続くこともあり得ます」

グランの答えに、オルコットは眉をひそめた。半日という時間は、決して短くない。もし誰かがこちらの動きを察知していれば、その間隙を突かれる可能性は十分にあった。

「使用する艦の跳躍炉の性能は」

「巡礼艇は、旧式のものです。冷却効率も、軍用艦に比べて劣ります。連続での跳躍は、二回が限界かと」

「――となると、六回の跳躍を行うには、少なくとも三段階に分けて休止を挟む必要がありますね」

「その通りです。休止のたびに、艦は無防備になります」

オルコットは、頭の中で経路と時間を組み立て直した。艦長として培ってきた実務的な感覚が、こういう時には嫌でも働いてしまう。休止のたびに生じる空白の時間、その間の警戒態勢、万一の遭遇時の対応――考えるべきことは、山積していた。

「――護衛は、最小限にすべきでしょう。目立たない小規模な移送隊で」

「同感です。ただ、道中の安全は保証できません」

「私が、個人的に同行することは可能ですか」

グランは、しばらくオルコットを見つめた。燭台の光が、老院長の皺深い顔に、静かな陰影を落としていた。

「艦長、あなたはもう、この件に十分すぎるほど関わってこられました。これ以上のご負担を、お願いするわけには」

「いえ」

オルコットは静かに首を振った。

「鍵を託した責任は、まだ俺の中にある。それに――」

彼は、胸ポケットに収めた鎮魂会の灯火の意匠に触れた。それは、以前グランから贈られた小さな徽章だった。

「これを、最後まで見届けたい」

グランは、深く頭を下げた。

「――では、お願いします」

「院長、一つ伺ってもよろしいですか」

「何なりと」

「ノクターンに鍵を移した後、あなた方はどのようにそれを扱うつもりですか。永久に隠し続けるのですか、それとも、いずれ表に出す時が来るとお考えですか」

グランは、しばらく沈黙した。燭台の炎が、静かに揺れていた。

「――正直に申し上げれば、私にも分かりません。ただ、この鍵が本当の意味で必要とされる時が来るとすれば、それはきっと、今よりもずっと後――両国の対立が、何らかの形で決着した後のことでしょう。それまでは、ただ静かに守り続けるしかない」

「守り続ける、か」

「弔いというのは、そういうものです。すぐに答えが出るものではない。ただ、絶やさずに続けることに意味がある」

その言葉は、オルコットの胸に、静かに、しかし深く残った。

移送計画の詳細は、極秘裏に進められることになった。参加者は最小限――オルコット、アダム、そして鎮魂会の護衛数名のみ。マグダの残り火隊にも、念のための待機を頼んだ。移送の日取り、経路、使用する艦艇の詳細に至るまで、グランとオルコットは、幾度も細部を詰めていった。

「経路上、最も危険な区間は、四回目と五回目の跳躍の間になります。この区間だけは、通常の巡礼航路から外れる、非公式な航路を使うことになります」

「非公式な航路、というと」

「かつて、鎮魂会が密かに使用してきた、記録に残らない航路です。連邦にも同盟にも知られていません。ただし、この航路自体、長らく使われていないため、最新の状況を正確には把握しきれていません」

「――未知数のリスクがある、ということですね」

「その通りです」

オルコットは、その不確実性を胸に刻みながらも、他に選択肢がないことを理解していた。他の航路を使えば、連邦の哨戒網に捕捉される確率が跳ね上がる。既知のリスクと未知のリスク、どちらを取るかという選択でしかなかった。

「マグダの残り火隊には、どの程度の情報を伝えますか」

グランが尋ねた。

「経路の詳細までは伝えない方がいいでしょう。何かあった時の緊急支援要員として、待機してもらうだけに留めます」

「――知る者を減らすことが、鍵を守る上で、最も確実な方法ですからね」

グランの言葉に、オルコットは頷いた。デルフォスの一件以来、彼は情報の流出がどれほど致命的な結果を招くかを、身をもって学んでいた。信頼できる者であっても、知る必要のない情報は、極力伝えない――それが、この作戦における鉄則だった。

その夜、オルコットはセシルに、この計画を伝えた。艦内の狭い私室で、二人は向かい合って座っていた。

「――私も、同行させてください」

セシルは即座に言った。その声には、迷いがなかった。

「危険な任務だ」

「あなただけを、危険な場所に行かせるつもりはありません」

「セシル、これは俺個人の責任の話だ。君まで巻き込む必要は」

「もう巻き込まれています。今更、線引きをする意味がありますか」

セシルの言葉に、オルコットは何も返せなかった。彼女の言う通りだった。この一年で、二人はもう、互いの運命から切り離せないほど、深く関わり合ってしまっていた。

「それに」

セシルは続けた。

「私にも、電子妨害の技術があります。護送任務の途中、何かあれば、役に立てるかもしれません」

「――前にも、その技術に助けられた」

オルコットは、ドローンの一件を思い出しながら言った。

「今回も、頼りにさせてもらう。だが、無茶はしないでくれ」

「それは、あなたにも言えることです」

セシルは、少し呆れたように笑った。オルコットも、つられて小さく笑った。この重苦しい任務を前にして、二人が笑い合える時間があることに、彼はどこか救われる思いがした。

長い沈黙の後、オルコットは頷いた。

「――わかった。一緒に来てくれ」

窓の外には見えない灰域の暗闇の向こうに、まだ見ぬノクターンへの道が、静かに延びているのを、オルコットは感じていた。

出発前夜、オルコットはマグダに直接連絡を入れた。

「マグダ、今回の件、緊急時の対応だけ頼みたい」

『詳しいことは聞かないでおくよ。いつでも呼んでくれ』

マグダの声は、いつも通り気安かったが、その裏に確かな信頼が滲んでいるのを、オルコットは感じ取った。残り火隊との付き合いも、思えば長くなった。詳細を語らずとも、いざという時には駆けつけてくれる――そういう関係を築けたことを、彼はありがたく思った。

「頼む。恩に着る」

『よせよ、水臭い。艦長のためなら、いつでも一肌脱ぐさ』

通信を切った後、オルコットはしばらく、艦長室の暗がりの中で目を閉じていた。明日からの行程が、無事に終わることを、願わずにはいられなかった。だが、願うだけでは何も変わらないことも、彼は嫌というほど知っていた。できることを、一つずつ、確実に積み重ねていくしかない。それが、彼がこれまでの人生で学んできた、数少ない確かな真理だった。

翌朝、出発の準備が整った停泊地に、オルコットは早めに姿を現した。すでにアダムと護衛の修道士たちが、静かに積み込み作業を進めていた。誰も言葉を発さない、淡々とした作業の様子に、オルコットは、この一団が背負っている責務の重さを、改めて感じ取った。セシルもまた、旅装を整えて現れた。二人は短く頷き合い、それぞれの持ち場へと向かった。

(第57話へ続く)