合流地点まで残り二日というところで、ついに連邦の哨戒艦が《薄明》を捕捉した。艦橋に警報が鳴り響いた瞬間、これまで張り詰めていた静かな緊張が、一気に鋭いものへと変わった。
ここまでの航路で、幾度となく敵艦の光点をやり過ごしてきた。そのたびに息を潜め、通り過ぎるのをただ待ち続けてきた。だが今回は違う。警報音の質が違うことに、オルコットは瞬時に気づいた。これは、発見を示す音だ。
合流地点までの残り二日という数字が、これほど遠く感じられたことはなかった。ここまで来て捕捉されるとは、と内心で舌打ちをしたい気分だったが、それを表に出す余裕はなかった。
艦橋の照明が、警戒態勢を示す赤に切り替わる。オルコットの耳には、乗員たちの呼吸音までもが、やけにはっきりと届いてきた。誰もが声を潜め、それでいて全身の神経を張り詰めさせている、その気配だけが艦橋を満たしていた。
「艦長、駆逐艦《ヴォルカン》、こちらを直接視認しています。回避不可能な距離です」
「識別を照会してきています。回答をどうしますか」
オルコットは一瞬迷ったが、下手な言い訳は逆に怪しまれると判断した。ここまでの二日間、慎重に息を潜めて進んできた甲斐もなく、最後の最後で発見されてしまった。だが、動揺を顔に出すわけにはいかない。
「哨戒任務中の同盟艦、と正直に応答しろ。ただし、積荷については一切触れるな」
応答を送ると、しばらくの沈黙の後、《ヴォルカン》から思いがけない反応が返ってきた。
『貴艦への臨検を要求する。灰域協定に基づき、積荷の確認を行う』
「――臨検だと」
これまでにない強硬な要求だった。単なる哨戒任務であれば、臨検までは通常求められない。オルコットの脳裏に、悪い予感が広がった。この要求は、単なる警戒によるものではない。何かを――あるいは、誰かを、疑っての行動だ。
通信機越しに聞こえる相手の声には、感情の色がほとんど感じられなかった。だからこそ、余計にオルコットの背筋を冷たくさせた。事務的な口調の奥に、確信めいたものが潜んでいる。そんな気がしてならなかった。
艦橋の空気が、一瞬にして張り詰めた。誰もが息を潜め、次にオルコットが下す判断を待っていた。この数秒の沈黙が、これから先の全てを決定づけることを、艦橋にいる誰もが理解していた。
灰域協定は、両国の哨戒艦が互いの民間船や輸送船に対して、一定の条件下で臨検を行うことを認めている。だが軍艦同士の間では、これまで実質的に運用されたことのない条項だった。それをあえて持ち出してきたということは、連邦側が相当な確信を持って、こちらに何かがあると踏んでいる証拠だった。
「艦長、これは……偶然の哨戒任務ではないかもしれません」
ダーナが低い声で言った。オルコットも同じ考えだった。この《ヴォルカン》は、ただ巡回していたのではなく、明確な目的を持ってこちらを待ち構えていた可能性がある。
「拒否すればどうなる」
「協定違反として、拿捕もしくは強制排除の対象になる可能性があります」
オルコットは奥歯を噛みしめた。臨検を受け入れれば、鍵の存在が発覚する。拒否すれば、戦闘は避けられない。どちらを選んでも、失うものがある。だが、鍵を失うという選択肢だけは、絶対に取れなかった。
掌に、うっすらと汗がにじんでいた。この程度の緊張は、これまでの艦隊勤めで幾度も経験してきたはずだった。だが今この瞬間の重さは、これまでのどの局面とも違う質のものだと、オルコットは自分でも認めざるを得なかった。
わずか数秒の間に、オルコットの頭の中では幾つもの可能性が駆け巡った。臨検を受け入れ、何とか鍵を隠しきる可能性はあるか――否、これほど厳重に管理された鍵を、艦内のどこに隠しても、専門の捜索を受ければいずれ見つかる。ならば、選択肢は最初から一つしかなかった。
「マグダ、応戦の準備は」
通信越しにマグダの声が返る。いつもと変わらぬ、飄々とした調子だった。
『いつでもいいよ、艦長さん』
その声の軽さに、オルコットはわずかに救われる思いがした。彼女がこうして普段通りに振る舞ってくれることが、今のオルコットにとって、何よりの支えだった。デルフォスからここまで、休みなく戦い続けてきた彼女の部隊が、それでもまだ十分な闘志を残していることに、オルコットは改めて頭が下がる思いだった。
「――臨検、拒否する。全艦、戦闘配置」
《薄明》と護衛の残り火隊艦艇2隻が、戦闘態勢に移行した。艦内に響く警報音が、これから始まる戦闘の緊張を否応なく高めていく。《ヴォルカン》は駆逐艦級、単艦での火力は《薄明》を上回るが、こちらは数で対抗できる。
「《ヴォルカン》、砲門を開いています!」
「回避運動、同時に側面へ回り込め!」
《薄明》は身を翻し、《ヴォルカン》の主砲の射線を外しながら、残り火隊の艦艇とともに側面へ展開した。実体弾の斉射が、暗闇を切り裂く。着弾の衝撃が艦体を揺らし、警告灯がいくつも明滅した。
「被害報告!」
「外殻に軽微な損傷!今のところ、負傷者はいません!」
床を伝う振動が、まだ収まりきらないうちに、オルコットは次の一手を組み立て始めていた。手のひらに汗が滲んでいることに、今更ながら気づく。だが、それを気にしている時間さえ惜しかった。
オルコットは短く頷いた。開戦直後のこの一撃を凌いだことが、まずは何よりの収穫だった。だが《ヴォルカン》の火力は、まだ本領を発揮していないはずだ。油断はできない。振動が収まった後の艦内の静けさすら、次の一撃への予兆に思えた。
「側面から集中砲火!」
残り火隊の艦艇が、《ヴォルカン》の推進機関系統へ砲撃を集中させる。装甲の薄い部分を突く、熟練した射撃だった。マグダの部隊がこれまでの戦闘で培ってきた技量が、ここでも遺憾なく発揮されていた。
ホロ図に映る光点の軌跡は、無駄のない弧を描いていた。無線越しに響く号令と応答のやり取りにも、迷いがない。オルコットはその様子を横目に見ながら、この部隊を率いてここまで来られたことを、静かに幸運だと思わずにはいられなかった。
デルフォスでの地上戦、そして先の駆逐艦との交戦を経てもなお、彼らの練度は落ちていなかった。むしろ、場数を踏むほどに、その連携は精度を増しているようにさえ見えた。オルコットはホロ図の上で交錯する光点の動きに、彼らの実力を改めて認識した。
《ヴォルカン》も黙ってはいなかった。艦首の副砲を残り火隊の一隻へ向け、牽制の斉射を放ってくる。着弾は僅かに逸れたが、その衝撃波だけで、標的の艦は大きく姿勢を崩した。
「そちら、被害は」
「軽微!まだやれます!」
無線越しに返ってきた声には、恐怖よりも闘志の方が色濃く滲んでいた。オルコットはその声に、わずかな安堵を覚えながらも、次の一手を素早く指示した。
「効いています!《ヴォルカン》、推進出力が低下!」
「このまま追撃するな。奴が動けなくなれば十分だ。我々は先を急ぐ」
オルコットは追撃による決定的な打撃よりも、この場からの離脱を優先した。目的は《ヴォルカン》の撃破ではない。鍵を無事に届けることだ。余計な戦果を求めて、これ以上の被害を出す必要はなかった。
戦果を求めれば、相手にとどめを刺す誘惑は常にある。だが、それは今回の任務の本質から外れる行為だ。オルコットはこれまでの艦隊戦でも、常にこの一線を意識してきた。勝つことと、目的を果たすことは、必ずしも同じではない。
遠ざかっていく《ヴォルカン》の艦影を見つめながら、オルコットはふと、あの艦の艦橋にも、自分たちと同じように緊張を押し殺している乗員たちがいるのだろうと思った。敵であることに変わりはないが、憎しみを向ける相手ではない。ただ、互いの立場が、そうさせているだけだ。そう思うことで、オルコットは自分の中に生まれかけていた昂ぶりを、静かに鎮めた。
《薄明》たちは、機動力を失った《ヴォルカン》を後にし、合流地点へと針路を戻した。だが、この交戦の記録は、間違いなく連邦本国へ報告されるだろう。臨検を拒否し、戦闘にまで発展したという事実は、これまでの静かな逃避行とは、また違う意味を持つことになる。
これまでは、あくまで「発見されずに済ませる」という前提での逃避行だった。だが今後は、「同盟艦が連邦の臨検を武力で拒否した」という、公式な事件として記録されることになる。この一件が、両国の緊張をさらに高める材料になることは、想像に難くなかった。オルコットはその重みを、静かに受け止めた。
「――時間との勝負になってきたな」
オルコットは呟いた。この交戦が報告されれば、連邦はより一層、警戒網を強化するはずだ。合流までの残り二日間が、これまで以上に危険なものになることは、想像に難くなかった。窓の外に遠ざかっていく《ヴォルカン》の光を見つめながら、オルコットは次の一手を考え始めていた。
被害報告が上がってきた。残り火隊の一隻に軽微な損傷、《薄明》には被害なし。今回は誰も欠けることなく、この交戦を乗り切ることができた。それだけが、せめてもの救いだった。だが、この先も同じように運が続くとは限らない。
「マグダ、そちらの被害は」
『かすり傷程度だよ。心配ご無用』
その軽い口調に、オルコットは今回もまた救われる思いがした。だが同時に、彼女がどれだけの緊張を、いつも軽口の下に隠しているかを、オルコットはよく知っていた。
艦橋の照明が、通常の白色に戻っていく。その光の変化だけが、戦闘の終わりを静かに告げていた。オルコットは椅子の背にわずかに体を預け、詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
(第30話へ続く)