哨戒任務のローテーションを終え、《薄明》は同盟軍の主要拠点である軌道要塞「ハイド・ステーション」に帰投した。定例の艦体整備と乗員の休養、そして艦長による戦域報告――帰投のたびに繰り返される手続きだったが、今回はいつもと様子が違った。

ハイド・ステーションは、灰域から後方に下がった同盟領内に浮かぶ巨大な環状構造物で、艦艇整備ドック、乗員宿舎、司令部機能を一体に備えていた。《薄明》がドッキングアームに固定される際の重い金属音は、いつも通りオルコットの耳に馴染んだものだったが、今日ばかりはその音さえどこか他人事のように聞こえた。

「艦長、整備班への引き継ぎは私が」

ダーナがそう申し出た。

「頼む。跳躍炉のチャージ効率の件も、忘れず伝えてくれ」

「了解しました。艦長は?」

「戦域報告に行ってくる。いつも通りだ」

そう答えながらも、オルコットの内心は落ち着かなかった。ヴェスタ港での一件、そしてあの警告射撃の一報――何かが動き出している予感が、拭えないまま続いていた。

宿舎区画へ続く連絡通路を歩きながら、オルコットは久しぶりに感じる重力の重さに、わずかに足取りを乱した。艦内の人工重力と、ステーションのそれとでは、ほんのわずかに設定が違う。長く艦にいると、その違いにいちいち体が反応してしまう。通路の窓からは、整備ドックに並ぶ同盟艦の艦影がいくつも見えた。修理待ちの艦、出撃準備中の艦、そして退役を待つだけの旧式艦。灰域を挟んだ緊張が高まるにつれ、ドックの稼働率は年々上がっているという噂を、オルコットも耳にしていた。

通路の途中、換気口から流れてくる金属油と消毒液の匂いが、艦内の空気に馴染んだ鼻先を刺した。ステーションの空気は、艦のそれよりもわずかに冷たく、乾いている。オルコットはその違いにさえ、今日は妙に神経質になっている自分に気づいた。

戦域報告そのものは、いつも通り形式的なものだった。担当士官は淡々と《薄明》の哨戒データを受け取り、いくつかの事務的な質問をしただけで報告を終えた。連邦駆逐艦《カラバン》の越境の件も、上層部にはすでに別ルートで伝わっていたらしく、担当士官の反応は驚くほど淡白だった。オルコットはその温度差に、かえって不穏なものを感じた。何かが、自分の与り知らないところで、既に動いているのかもしれない。

報告を終えたオルコットを、副官が会議室ではなく、上層階の個室へと案内した。通されたのは、司令部の中でも上級士官しか立ち入れない一角だった。廊下の絨毯は音を吸い込み、擦れ違う士官たちの敬礼の角度までもが、下層階とは違う緊張感を帯びていた。個室の扉の前に立つと、副官は一礼して立ち去った。そこにいたのは、ヴェスタ港で会ったイオン・ラスクだった。

「わざわざこんな場所で、ですか」

「立ち話で済ませられる話ではないので」

ラスクは扉を閉め、防諜処理済みであることを示す表示灯を確認してから口を開いた。壁面の一角に埋め込まれた小さなランプが、緑から赤へ、そして安定した紫色へと切り替わるのを、オルコットは横目で確認した。

「お座りください。長くなります」

オルコットは示された椅子に腰を下ろした。部屋には窓がなく、代わりに壁一面に、灰域周辺の航路図を映すホロパネルが埋め込まれていた。

「先の哨戒報告、拝見しました。連邦駆逐艦の越境。会議直後というタイミング、あなたの所見通り、単なる偶然とは考えにくい」

「参謀本部も同じ見解だと」

「一部はね。ただ問題は、連邦が何を測っているか、です」

ラスクは端末を操作し、粗い解像度の航跡データを投影した。この半年、緩衝域周辺で観測された連邦艦の異常な動きが、いくつも重ねて表示されている。線は無秩序に見えて、よく見ると一つの方向――デルフォス方面へと収束していくパターンを描いていた。

「これは何かの輸送ルートの下見だと、私は見ています。それも、通常の物資輸送ではない。異様に厳重な護衛がつく輸送です」

「何を運んでいると」

ラスクは即答しなかった。しばらく沈黙し、それから言葉を選ぶように話し出した。

「艦長、あなたはケイオン第七集落の件をご存知ですね」

不意打ちだった。オルコットは表情を変えないよう努めたが、内心では動揺していた。あの件を知っている人間が、参謀本部の中にもいたとは。心臓が一拍分だけ、いつもより強く打った気がした。

「――噂程度には」

「噂ではありません。私は独自にあの件を調べていました。連邦の自律核実弾試験の隠蔽、標的判定アルゴリズムの欠陥。あなたが集めた情報の断片は、私が持っているものと符合します」

オルコットは黙って続きを促した。喉の奥が乾いているのを感じた。三年前の記憶が、こんな形で他人の口から語られる日が来るとは、想像したこともなかった。抱え続けてきた重みが、急に外から押し返されてくるような感覚があった。

「連邦は今、自律無人艦の本格配備計画を進めている。表向きは人員損耗の削減が目的とされていますが、実態は違う。彼らは、あの実弾試験事故のような『誤爆』が今後も起こり得ることを前提に、それでも配備を進めようとしている。人が死ぬことは織り込み済みなんですよ」

「――だから、何だと」

「連邦の自律核認証システムには、ある種の非常停止手段が存在するという情報があります。開発の初期段階、認証標準そのものを策定した際に組み込まれた、いわば最後の安全弁です」

「非常停止手段、というのは、具体的には」

「詳細はまだ私も掴み切れていません。ただ、その存在自体が、連邦内でも極めて限られた人間にしか知らされていないようです。だからこそ、これほど厳重な護衛がつくのでしょう」

ラスクの声が一段低くなった。

「その手段さえ手に入れば、連邦がどれだけ自律艦を配備しようと、暴走した場合には止められる。国家がその力を独占する限り、それは脅しの道具にしかならない。だが――」

「だが、それが今、輸送されようとしている」

オルコットが先を続けると、ラスクは初めて薄く笑った。

「察しがいい。ええ、そうです。連邦は近々、その安全弁の実体を、より安全な保管施設へ移送する計画があるらしい。今の越境行動は、その護送ルートの下見だと私は見ています」

窓の外には、灰域の暗闇が広がっていた。オルコットはその暗さの中に、三年前に見た焦土の光景を重ねていた。壁面のホロパネルに映る航路図の線が、まるで生き物のように、じわじわとある一点へ集束していくのを、彼はしばらく黙って見つめていた。表示の解像度は粗く、正確な到達点までは読み取れない。だが、その収束の仕方だけで、これが単なる定例輸送ではないことが伝わってきた。

「収束点の詳細は」

「まだ絞り切れていません。連邦領のかなり奥、辺境の惑星のどこかだとは思いますが」

「絞り込みには時間がかかりそうですね」

「ええ。ですが遠からず、もっと具体的な話ができるはずです」

「情報の出所は?」

「今は言えません。ですが、複数の独立したルートから、同じ方向を示す情報が上がってきている。偶然の一致にしては出来すぎです」

「参謀本部の総意ですか、それとも――」

「あなたの想像通り、私個人の動きが大半です。ここだけの話にしてください」

ラスクはそう言って、初めてわずかに肩の力を抜いたように見えた。

「正直に言えば、参謀本部の上層部にこの話を持ち上げても、まともに取り合ってもらえないでしょう。証拠は断片的で、確度も高くない。組織として動くには、あまりに材料が乏しい」

「では、なぜ私に話す」

「あなたなら、証拠が不完全でも動く人間だと思ったからです。三年間、誰にも話さずに真実を抱え続けてきた人間は、そう多くない」

オルコットは黙ってラスクの顔を見つめた。参謀の目の奥には、単なる打算だけでは説明のつかない何かがあった。疲れたような、それでいて諦めきれない何かが。

「あなた自身は、何を望んでいるんですか」

オルコットが尋ねると、ラスクは一瞬だけ視線を逸らした。

「戦争が起きてほしくない、というだけです。単純すぎますか」

「参謀らしくない答えだ」

「参謀である前に、この灰域で何人もの部下を失ってきた人間でもあります。それだけです」

「艦長、あなたに聞きたい。もしその安全弁が手に入るとして――それをどこに置くべきだと思いますか」

問いの重さに、オルコットはしばらく答えられなかった。部屋の静けさの中で、壁のホロパネルが放つ淡い光だけが、二人の間を漂っていた。

同盟に、と即答することもできた。それが最も自然な答えのはずだった。だが、その言葉を口にしようとした瞬間、オルコットの脳裏に浮かんだのは、三年前の焦土の光景だった。あの事故を引き起こしたのは連邦だが、もし同じ技術と権限が同盟の手に渡ったとして、同盟が絶対に同じ過ちを犯さないと、誰が保証できるだろうか。国家という枠組みそのものへの不信が、彼の中でじわりと形を持ち始めていた。

ラスクは急かすことなく、じっとオルコットの答えを待っていた。壁のホロパネルの光が、二人の顔に淡い陰影を落としている。換気系のかすかな駆動音だけが、部屋の沈黙を埋めていた。

オルコットは口を開きかけては、その度に言葉を飲み込んだ。同盟に、と言い切ってしまえば楽だった。だが、それを口にした瞬間、自分の中の何かに嘘をつくことになる気がして、どうしても声にならなかった。

自分の掌の中に、まだ答えのない問いだけが残った。窓のない部屋の空気は、艦橋のそれよりも重く、動かない。オルコットはその重さを、しばらく肺の奥にとどめておくしかなかった。

(第6話へ続く)