ノクターン攻防戦の詳細は、当然ながら両国政府に、全く異なる形で伝えられた。事実はひとつしかないはずなのに、それを語る言葉は、国境を挟んで正反対の意味を帯びていく。オルコットは、その隔たりの大きさに、今さらながら苦いものを感じていた。
連邦国内では、「同盟が匿う軍事機密施設への、正当な強制捜査」という名目で、作戦の実行が正当化された。だが、強襲部隊が想定以上の損害を受け、目的を達成できずに撤退したという事実は、伏せられたまま処理された。ヴィスという名前も、報道の中には一切登場しなかった。作戦の失敗そのものが、なかったことにされていた。
オルコットは、その報道を見るたびに、苦い笑いが込み上げるのを抑えられなかった。国境紛争の実弾試験事故を目撃した、あの日から変わらない連邦の体質だった。都合の悪い事実は、常に、なかったことにされる。今回もまた、同じことが繰り返されているに過ぎない。
ホロ映像の向こうで、アナウンサーが淡々と原稿を読み上げる声を、オルコットはしばらく黙って聞いていた。その平坦な口調の裏側に、氷の回廊で倒れた仲間たちの姿を重ねることは、あまりにも困難だった。事実と、それを語る言葉との間に横たわる隔たりの深さに、彼はあらためて眩暈にも似た感覚を覚えた。
同盟国内では、「連邦による、中立宗教施設への一方的な武力侵攻」として報じられた。鎮魂会という、双方の戦没者を弔ってきた組織への攻撃は、同盟国民の間に、強い反連邦感情を呼び起こした。ホロニュースの映像には、聖堂の崩れた外壁が繰り返し映し出され、被害の実像とはやや異なる形で、世論を煽っていった。
同盟政府もまた、正規管制鍵の存在そのものには、一言も触れなかった。触れれば、なぜ自国の艦長がその場に居合わせていたのか、説明せねばならなくなる。報道は、あくまで「無防備な宗教施設への蛮行」という一点だけを強調し、事の本質からは、巧妙に目を逸らさせていた。オルコットは、その報道の在り方にもまた、複雑な思いを抱かざるを得なかった。真実の半分だけを使って、国民の怒りを煽る――それは、連邦のやり方と、本質的には何も変わらない。
「――これで、決まったな」
オルコットは、ハイド・ステーションに帰投した後、ホロ映像に流れる同盟議会の緊急審議の様子を見つめていた。傷の手当てを終えたばかりの体には、まだ鈍い痛みが残っていたが、それ以上に、心の中に広がる重さの方が、彼を苛んでいた。
ステーション内は、いつになく慌ただしかった。整備兵たちが《薄明》の損傷箇所を確認して回り、補給物資を積み込む作業員たちの声が、通路の奥まで響いていた。誰もが、これから起こることを、どこかで予感しているかのようだった。
溶接の火花が、ドックの各所で絶え間なく散っていた。その光景は、開戦を控えた緊張感と、いつもと変わらぬ日常の作業とが、奇妙に同居しているように、オルコットには見えた。
「同盟議会は、正式に、連邦への軍事的対抗措置――事実上の宣戦布告に向けた最終審議を開始しました」
議員たちの怒号にも似た議論が、画面越しに響いていた。誰もが、口々に「報復」「毅然たる対応」といった言葉を叫んでいる。その熱狂の裏側に、ノクターンで実際に何が起きたのか、正確に理解している者は、ほとんどいないだろう。
議場の熱気は、画面越しにも伝わってくるようだった。開戦を求める声が、まるで堰を切ったように溢れ出している。オルコットは、その光景に、これまで積み重ねてきた緊張が、ついに臨界点を超えたのだということを、はっきりと感じ取っていた。
「――皆、怒りを口にすることはできても、あの氷の回廊で何人が死んだか、その名前を知らない」
オルコットは、独り言のように呟いた。ドロテ、ロブ、マルタ、コンラート――彼が心に刻んだあの名前を、議会の誰一人として知らない。それでも、彼らの死が、この国を戦争へと押し出す燃料の一つになっている。その事実に、彼は言いようのない虚しさを覚えていた。
セシルが、オルコットの隣で、静かに言った。傷だらけの彼の手を、そっと見つめながら。
「――止められませんね、もう」
「ああ」
オルコットは、静かに頷いた。窓の外には、灰域の暗闇が広がっていた。かつては単なる緩衝地帯だったその空間が、今や、避けようのない衝突の前触れを孕んでいるように見えた。
「俺たちが鍵を守り抜いたことも、ラスクが失脚したことも、ハルシオンで多くの命が失われたことも――すべてが、この結末へと積み重なっていった」
「後悔していますか」
セシルの問いは、静かでありながら、彼女自身の不安をも映し出しているように聞こえた。オルコットは、少し考えてから、口を開いた。
「――わからない。ただ、一つだけ、確かなことがある」
彼は、窓の外、灰域の暗闇を見つめた。かつて、そこで幾度も哨戒任務についていた頃のことを思い出す。あの頃は、まだ、これほどの規模の戦争が始まるとは、想像もしていなかった。ただ、辺境の哨戒任務をこなし、時折発生する小競り合いを凌いでいれば、それで済むと思っていた。今にして思えば、あの頃の自分は、あまりにも多くのことを知らずにいた。
叩き上げの現場指揮官として、政治には本来無関心だった自分。その自分が、いつしか、国家の在り方そのものに疑問を抱き、鍵という一つの象徴を守り抜くために、命を賭けるようになった。その変化の道のりを振り返ると、オルコットは、時に自分自身が別人になったかのような、奇妙な感覚に囚われることがあった。
自律核の実弾試験事故を目撃した、あの日から、何もかもが変わり始めた。改竄された記録、隠された真実、そして、それに抗おうとする一握りの人間たち。その果てに、彼は今、この窓の外に広がる暗闇と向き合っている。
「鍵だけは、この戦争が始まっても、どちらの国家の手にも渡っていない。それだけは、俺たちが守り抜いた事実だ」
セシルは、その言葉を、まるで何かを確かめるように、静かに反芻していた。彼女もまた、この数年間、自分の祖国の隠蔽体質と向き合い続けてきた。その果てに、彼女が選んだ道が、間違っていなかったと信じたい――その願いが、表情の端ににじんでいた。
「――私は、連邦の技術士官として育てられました。倫理制限の設計に携わることを、誇りに思っていた時期もあります。でも、今は、その誇りが、どれほど脆いものだったか、思い知らされています」
「脆いのは、誇りじゃない。それを支えていたはずの、国家の側だ」
オルコットの言葉に、セシルは小さく笑った。それは、乾いた自嘲でも、卑屈な追従でもなく、ただ静かに、事実を受け入れる笑みだった。
「――そう言ってもらえると、少し救われます」
セシルは、そう言って、わずかに肩の力を抜いた。その様子を見て、オルコットは、彼女がこれまでどれほどの重圧を、一人で抱え込んできたのかを、あらためて思い知らされた。
窓の外の暗闇を見つめながら、二人はしばらくの間、言葉を交わさなかった。互いの国が、明日、正式に戦争状態へ突入する。その事実の重さを、静かに噛みしめる時間だった。
ドーベル少将から、緊急の招集がかかった。境界防衛艦隊の全指揮官を集めた、最後の会議だった。オルコットは、まだ癒えきらない体を押して、指定された会議室へと向かった。
「――諸君に、伝えねばならないことがある」
少将の声には、これまでにない重々しさがあった。集まった指揮官たちの顔にも、一様に緊張が張り詰めていた。長年、灰域の緩衝線を守り続けてきた者たちにとって、この瞬間は、これまでの日々の終わりを告げる合図でもあった。
会議室の壁には、灰域全域の戦況図が投影されていた。両軍の艦隊配置を示す光点が、緩衝線を挟んで、じわじわとその密度を増していた。オルコットは、その光点の一つ一つに、これから乗り込むことになる人間たちの顔を、重ね合わせずにはいられなかった。
「同盟政府は、明日正午、連邦に対し、正式な宣戦布告を行う」
会議室に、重い沈黙が落ちた。誰も、言葉を発することができなかった。オルコットは、その沈黙の中で、これまでの日々――哨戒任務、セシルとの出会い、鍵をめぐる攻防、そしてノクターンでの激戦――そのすべてが、この瞬間へと繋がっていたのだと、改めて実感していた。
ついに、灰域を挟んだ長い緊張の果てに、両国は、後戻りのできない戦争へと足を踏み入れようとしていた。オルコットは、窓の外に広がる暗闇を見つめながら、これから始まる戦いの規模を、まだ正確には想像できずにいた。ただ、これまでとは何もかもが違う、それだけは、確信を持って言えた。
会議が終わり、指揮官たちが次々と部屋を後にする中、オルコットは、しばらくその場に留まっていた。ドーベル少将が、彼の肩に、静かに手を置いた。
「――オルコット艦長。お前とセシル・マーロウ技官が、これまで背負ってきたものの重さは、私にも分かっているつもりだ」
「――ありがとうございます、少将」
「だが、これからは、お前個人の戦いではなくなる。艦隊全体、そして、この国全体の戦いだ。心して、かかれ」
オルコットは、深く頷いた。少将の言葉は、これから始まる長い戦いの重さを、あらためて彼に突きつけていた。
会議室を出た廊下で、彼はしばし足を止めた。窓の外に広がる灰域の暗闇を見つめながら、これまでの道のりを、もう一度、頭の中で辿り直した。あの実弾試験事故を目撃した日、ラスクに接触された日、セシルと初めて言葉を交わした技術交流会議の日、そしてノクターンでの死闘――そのすべてが、明日の宣戦布告へと繋がっていた。後悔はしない、と彼は自分に言い聞かせた。だが、この重さを背負って生きていくことだけは、避けられない現実だった。
(第86話へ続く)