崩れ落ちた戦闘機兵の残骸を挟んで、オルコットとヴィスは、しばし睨み合ったまま動かなかった。通路の照明は半ば失われ、非常灯の赤い光だけが、二人の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。遠く、まだ轟き続ける砲声と、地下深くまで響く氷の軋みが、この場に漂う静寂を、余計に不気味なものにしていた。
「――この場所ごと消し去る、だと」
オルコットは、ヴィスの言葉に、背筋が凍る思いがした。鍵だけでなく、鎮魂会の聖地そのものを、証拠隠滅のために破壊しようとしている。氷の回廊に反響するその言葉の重みが、じわりと胸の底に沈んでいく。
崩れかけた瓦礫の向こうで、アダムたちが安置所を守る隊列を組み直していた。だが、この場で決着をつけなければ、その防衛線も、いずれは意味を失う。オルコットは、荒い息を整えながら、ヴィスと向き合った。
「お前は、正規管制鍵の存在を国民に公表するつもりはないはずだ。それなのに、なぜここまでする」
「公表はしない。だが、存在を知る場所は、少ないほどいい」
ヴィスは、淡々と言った。その声には、憎悪も焦りもなかった。まるで、行政上の合理的な判断を口にしているかのような、乾いた響きだけがあった。
「この聖地が消えれば、鍵の在り処を知る者は、お前たちごく一部だけになる。処理は、それだけ簡単になる」
その口ぶりには、迷いも興奮もなかった。まるで在庫を整理するような口調で、彼は人の命と、何十年にもわたる祈りの場を、同じ天秤に載せていた。オルコットは、その乾いた合理性にこそ、底知れぬ恐怖を覚えた。
「――正気か。民間の宗教施設を、軍事目的で消し去るなど」
「正気だ。俺は、家族を同盟の攻撃で失った。国境紛争でな。あの日から、俺にとって正気とは、脅威を残らず刈り取ることだ」
その言葉に、オルコットは、セシルから聞いた話を思い出した。私怨と国家の大義が、分かちがたく結びついた男。彼の背負ってきたものの重さを、オルコットは推し量ることしかできなかった。だが、その重さが、これほど多くの命を巻き込む理由にはならない。
国境紛争――オルコット自身、その名を聞くたびに、苦いものが胸にこみ上げる。あの紛争もまた、双方の隠蔽と誤算が積み重なって起きた悲劇だった。ヴィスの家族もまた、その歪みに巻き込まれた犠牲者の一人なのだろう。だが、犠牲者が新たな犠牲を生み出す連鎖を、誰かが断ち切らなければならない。オルコットは、そう信じてきたはずだった。
「――お前の怒りは、分かる。分かるが、それを今、この場所にぶつける理由にはならない」
「分かる、だと。生温い言葉だ。お前に、俺の何が分かる」
ヴィスの声に、初めて感情の色が滲んだ。だが、それすらも、彼はすぐに押し殺した。
「――俺は、家族の亡骸を、まともに弔うことすらできなかった。国境紛争の記録は、双方の政府によって、都合よく塗り替えられた。俺の家族は、統計上の数字にすらならなかった」
その言葉には、これまでの彼の言動からは想像もつかないほどの、生々しい痛みが滲んでいた。オルコットは、一瞬、言葉を失った。この男もまた、あの改竄と隠蔽の構造の被害者だったのだ。
「――だからこそ、俺は思う。国家に、記録を委ねるべきじゃない、と」
「綺麗事だと、さっきも言った」
「綺麗事でも、他に道がないなら、それに賭けるしかない」
オルコットは、そう言い切った。ヴィスは、しばし沈黙した後、低く笑った。それは、嘲りにも、諦めにも似た、複雑な響きだった。
「――お前の家族を奪ったのは、同盟という国家か、それとも、その戦争を止められなかった、両国のすべての人間か」
ヴィスの表情が、わずかに揺れた。だが、それも一瞬だった。仮面のような無表情が、すぐにその揺らぎを覆い隠した。オルコットは、その一瞬の揺らぎを見逃さなかった。この男の中にも、まだ迷いは残っている。だが、それを言葉で解きほぐす時間は、もう残されていなかった。
「――言葉遊びに付き合う気はない」
ヴィスが、重火器の照準を安置所へ向けようとした瞬間、オルコットは全力で飛びかかった。
「――させるか!」
体当たりの衝撃が、二人分の体重を乗せて氷の壁に叩きつけられた。息が詰まるほどの衝撃だったが、オルコットは怯まなかった。ここで止めなければ、すべてが終わる。重火器の銃口が、わずかに逸れた。それだけで十分だった。
ヴィスの体は、想像以上に頑強だった。訓練された肉体特有の、無駄のない重心移動。オルコットは、組み付いた腕の中で、その筋肉の硬さを感じ取っていた。これは、一筋縄ではいかない相手だ、と改めて思い知らされた。
近接戦闘となった。ヴィスは、格闘技術にも長けていた。拳の一撃一撃が、正確に急所を狙ってくる。だが、オルコットもまた、幾多の実戦を潜り抜けてきた男だった。艦上での白兵戦、辺境の哨戒任務で培われた反射――それらすべてが、今、この一瞬に注ぎ込まれていた。
肘が脇腹に突き刺さり、鈍い痛みが走った。オルコットは息を詰まらせながらも、体勢を崩さず、逆にヴィスの腕を捻り上げにかかった。互いに一歩も譲らない、消耗を強いる攻防が続いた。氷の床に飛び散る汗が、戦闘灯の光を鈍く反射していた。
背後で、崩れかけた氷壁がまた一つ、鈍い音を立てて剥がれ落ちた。この場所自体が、二人の戦いに耐えかねているかのようだった。オルコットは、視界の端でその崩落を捉えながらも、意識を目の前の敵から逸らさなかった。一瞬の隙が、致命傷になる。それは、これまでの艦隊戦でも、地上戦でも、変わらぬ鉄則だった。
「――お前は、何のために戦っている」
ヴィスが、組み合いながら問うた。息遣いの合間から漏れるその声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
「鍵を、誰の手にも独占させないためだ。お前のような人間に、これ以上、恐怖を武器として使わせないために」
オルコットは、拳を叩き込みながら、そう答えた。理屈ではない。この数年間、彼が積み重ねてきた確信そのものだった。自律核の実弾試験で失われた命、改竄された記録、セシルが背負わされてきた苦悩――そのすべてが、この一撃に乗っていた。
「――綺麗事だ」
ヴィスが、押し返しながら吐き捨てた。
「綺麗事で済むなら、俺はとっくにこんな仕事、辞めている」
「綺麗事で終わらせないために、俺たちは鍵を託した。国家にも、教団の教義にも縛られない場所に。それの、どこが間違っている」
「間違っているさ。中立を気取ったところで、いずれ誰かが利用する。お前らのその理想が、次の悲劇の種になる」
ヴィスの言葉には、単なる強がりだけではない、確信めいた響きがあった。オルコットは、その言葉を頭の片隅に刻みながらも、今は答えを返す余裕がなかった。拳を交わし続けることだけが、この瞬間の全てだった。
殴り合いの合間、オルコットは、この男が背負ってきたものの重さを、あらためて思い知らされていた。国境紛争で家族を失い、その記録すら残らなかった男。そんな男が、なぜ、鍵という中立の象徴を、これほどまでに憎むのか――その理由は、単純な任務意識だけでは説明がつかなかった。ヴィスにとって、この鍵は、彼自身の喪失そのものを象徴する存在なのかもしれない。国家という枠組みに裏切られた者が、また別の枠組み――中立という名の逃げ場――を、決して許せずにいる。
「――それでも、俺は、この道を選ぶ」
オルコットは、そう言い切ると、渾身の力を込めて、最後の一撃を放った。
激しい攻防の末、オルコットは、ヴィスの重火器を弾き飛ばすことに成功した。金属音を立てて、それは氷の床を滑り、暗闇の奥へと消えていった。ヴィスの目に、初めて明確な焦りが浮かんだ。
「――終わりだ、ヴィス」
オルコットは、荒い息を吐きながら、そう告げた。全身の筋肉が悲鳴を上げていたが、勝機は見えていた。だが、その言葉が終わるより早く、ヴィスもまた、隠し持っていた小型の爆発物を、安置所の隔壁へ向けて投げつけていた。目にも留まらぬ、最後の悪あがきだった。
「――お前の綺麗事に、付き合ってやる義理はない」
ヴィスは、そう吐き捨てながら、爆発物の起爆スイッチへ手をかけていた。オルコットが気づいた時には、もう遅かった。
「――くそ!」
オルコットは、咄嗟に身を伏せた。爆発が、聖堂の一角を揺るがした。轟音とともに、氷の破片と粉塵が、通路全体を覆い尽くしていく。耳鳴りの中、彼はかろうじて意識を保ち、崩れ落ちる瓦礫から距離を取ろうと、力の入らない体を無理やり動かした。
粉塵の向こうから、アダムの叫び声が聞こえた気がした。だが、爆音の余韻で、耳は正常に機能していなかった。オルコットは、震える手で床を這い、視界を塞ぐ粉塵の中に、ヴィスの姿を探した。あの男を、ここで取り逃すわけにはいかない。そう思いながらも、身体は思うように動いてくれなかった。
指先に触れる氷の床は、爆発の熱でわずかに溶け、水膜となって手のひらを濡らした。冷たさが、かえって意識を繋ぎとめてくれるようだった。オルコットは、歯を食いしばりながら、上体を起こした。粉塵の向こうに、逃げるヴィスの後ろ姿が、一瞬だけ見えた気がした。追わなければ――そう思う端から、崩落の続く天井の音が、彼の注意を引き戻した。今は、それどころではない。安置所の無事を、まず確かめなければならなかった。
耳鳴りの向こうから、複数の足音が近づいてくるのが分かった。アダムたちが、崩落現場へと駆けつけているのだろう。オルコットは、震える膝に力を込め、なんとか立ち上がった。全身のいたるところに痛みが走ったが、骨折までは至っていないようだった。それだけが、せめてもの救いだった。
(第84話へ続く)