ラスクの更迭という出来事は、オルコットに、これから先の道の険しさを、改めて突きつけた。作戦を支えてきた後ろ盾を失い、彼はこれから、より孤立した立場で、鍵の秘密と、セシルの安全を守り続けなければならなかった。後任の参謀たちは、これまでの経緯を苦々しく思っている様子で、必要最低限の連絡以外、こちらに関わろうとはしなかった。

艦長室に戻ったオルコットは、しばらくの間、机の上に置かれた乗員名簿を眺めていた。名簿には、これまでの作戦で失われた乗員たちの名前に、すでに黒い線が引かれている。その一本一本の線が、彼にとっては、単なる事務的な処理ではなく、忘れてはならない記憶の証だった。彼は、自分がこれから、さらに多くの名前にその線を引くことになるかもしれない未来を、静かに、しかし確実に予感していた。窓の外に見える灰域の暗闇は、いつもと変わらぬ静けさを湛えていたが、その静けさが、これほど不穏に感じられたことは、これまでになかった。彼は、名簿を丁寧に閉じ、机の引き出しの奥深くに、大切に仕舞い込んだ。

その夜、オルコットはセシルに、ラスクの更迭を伝えた。艦長室の窓の外には、灰域の暗闇が、いつもと変わらぬ静けさで広がっていた。

「――そうですか」

セシルは、静かに目を伏せた。

「彼にも、これから先の安全な居場所がなくなるということですね」

「ああ」

「私たちは、多くの人を、この渦に巻き込んでしまいましたね」

オルコットは、否定できなかった。ダブレ、トマ、カロン、サナ――名前を刻んだ戦死者たち。ラスクの失脚。ハルシオンで失われた無数の命。鍵を守るという選択が、これほど多くの犠牲を積み重ねることになるとは、あの日、鎮魂会に鍵を託した時には、想像しきれていなかった。彼は、その名前の一つ一つを、今も忘れずに覚えていた。艦長として、彼らの死を、単なる数字として処理することだけは、絶対にしたくなかった。

「――ダブレは、着任してまだ半年だった。故郷に、婚約者がいると聞いていた」

オルコットは、静かに呟いた。

「トマは、口数の少ない男だったが、機関の調整には誰よりも丁寧だった。カロンは、いつも軽口を叩いていたが、戦闘になると誰よりも冷静だった。サナは――」

彼は、そこで一度言葉を止めた。サナの死は、彼にとって、今もなお、鮮明な痛みを伴う記憶だった。

オルコットは、机の上に指を這わせた。乗員名簿の紙面はもう手元にないが、そこに刻まれていた名前の並びと、線を引いた時のインクの滲みまで、指先が覚えているような気がした。

「――彼らの死を、俺は、鍵のための代償として片付けるつもりはない。一人一人に、名前と、生きた証がある。それを忘れたら、俺たちがしていることの意味も、失われる気がする」

セシルは、静かにその言葉を聞いていた。窓の外の暗闇に、彼女の視線が、しばらく吸い込まれるように留まっていた。

「――私も、名前を覚えておくべき人たちがいます。連邦の設計チームにいた同僚たち。まだ生きているかもわからない人たちです。彼らの名前を、あなたのように、はっきりと口にできる日が、いつか来るでしょうか」

「来るように、俺たちが動くしかない」

「――そうですね」

セシルは、小さく頷いた。彼女の瞳に、決意に似た光が宿るのを、オルコットは見た。

「――あなたは、本当に、艦長らしくない人ですね」

「褒めているのか、けなしているのか」

「褒めています。多くの指揮官は、犠牲を数字でしか語りません。あなたのように、一人一人の名前を覚えている人は、稀です」

「――後悔していますか」

セシルの問いに、オルコットは長い沈黙の後、首を振った。

「後悔はしていない。だが、この重さを、軽く扱うつもりもない」

彼は、セシルの手を取った。彼女の手は、いつものように、冷たく、そして小さく震えていた。

「――なあ、セシル。もし、あなたが連邦に残っていたら、今頃どうなっていたと思う」

セシルは、しばらく考えた後、静かに答えた。

「恐らく、粛清の対象になっていたでしょう。あるいは、口を閉ざしたまま、良心を殺して、設計チームの一員として働き続けていたか。どちらにしても、今のような形で、自分の意思で人生を選ぶことはできなかったと思います」

「それでも、危険は今の方が大きいかもしれない」

「危険の種類が違うだけです。あちらにいた時は、自分自身を裏切り続ける危険がありました。こちらでは、外から命を狙われる危険がある。私は、後者の方を選びます。少なくとも、今の私は、自分自身を裏切ってはいません」

彼女は、そう言いながら、自分の掌を見つめた。三年前、枷の設計図に向き合っていた頃の彼女の手は、今よりもずっと硬く、感情を押し殺すことに慣れていたはずだった。今の手は、震えることを恐れず、素直に感情を映し出している。その変化こそが、彼女がこの数年で歩んできた道のりを、何よりも雄弁に物語っていた。

オルコットは、その言葉に、静かに頷いた。彼女が背負ってきた選択の重さを、彼は改めて噛みしめた。誰かに命を狙われることよりも、自分自身の良心を裏切り続けることの方が、時に、人をより深く蝕むのかもしれない。

「戦争が始まれば、俺たちの立場は、これまで以上に危うくなるだろう。それでも――」

「それでも?」

「あなたと一緒にいる道を、選び続けたい」

セシルの目に、涙が滲んだ。

「――私も、同じ気持ちです。祖国を失い、居場所を失っても、あなたがいてくれるなら、それでいいと思えます」

二人は、灰域の暗闇の中、静かに寄り添った。それは、戦争という巨大な力学の前では、あまりにもささやかな誓いだった。だが、この誓いだけは、両国のどちらの思惑にも、決して奪われないものだった。

艦長室の空調が、低く一定の音を立て続けていた。オルコットは、その単調な音の中に、セシルの呼吸の音を聞き分けようとした。彼女の肩の震えは、いつの間にか収まり、代わりに、規則正しい呼吸が、彼の腕の中で静かに続いていた。この束の間の静けさが、これから訪れる嵐の前触れに過ぎないことを、彼は痛いほど理解していた。それでも今だけは、その事実から目を逸らしていたかった。

「――誓い、というのは、大袈裟でしょうか」

セシルが、少し照れくさそうに呟いた。

「大袈裟でも構わない。俺たちには、そういう大袈裟な言葉が、今は必要な気がする」

オルコットは、これまでの人生で、誓いや約束といった大仰な言葉を、あまり口にしてこなかった。艦長という立場は、感情よりも判断を優先することを求められる。だが、セシルの前でだけは、そうした鎧を脱ぎ捨てても構わないと思えた。

「――そうですね。国家が交わす条約や協定は、これほど簡単に破られるというのに、私たちの、こんな小さな約束の方が、よほど確かなものに思えます」

オルコットは、彼女の言葉に、静かに笑った。乾いた、それでいて温かみのある笑いだった。

「――皮肉なものだな。何百万人もの運命を左右する外交交渉が決裂したその後で、俺たちみたいな小さな存在の誓いだけが、確かなものとして残る」

「小さくはありません。少なくとも、私にとっては」

「俺にとっても、そうだ」

二人は、しばらくの間、言葉を交わさずに、ただ互いの体温を確かめ合っていた。艦長室の壁越しに、当直の交代を告げる短いブザー音が、遠くから微かに聞こえてきた。日常の業務は、こんな時でさえ、変わらず続いていく。その事実が、オルコットにとって、むしろ奇妙な安心感を与えていた。艦という組織は、たとえ艦長の私的な感情がどれほど揺れ動こうとも、規則正しく時を刻み続ける。その規則正しさこそが、これから訪れる混乱の中で、彼が正気を保つための、数少ない拠り所になるのかもしれなかった。

翌日、境界防衛艦隊に、新たな緊急命令が下された。艦橋に響いた通信士の声には、これまでの報告にはなかった、切迫した響きがあった。

「――連邦艦隊、灰域全域で大規模な展開を開始した模様」

オルコットは、即座に艦長席に座り直し、表示された展開図を確認した。灰域の各所に、連邦艦隊を示す光点が、これまでにない密度で表示されていた。

「――展開の規模は」

「巡洋艦十二隻、駆逐艦三十隻以上。加えて、補給艦隊も同時に展開しています。これは、単なる示威行動の域を超えています」

ダーナの声にも、緊張が滲んでいた。オルコットは、灰域の地図を睨みながら、静かに呟いた。

「――全面戦争の準備、そのものだな」

「同盟側も、対抗する形で、境界防衛艦隊全体に警戒態勢の強化命令が下っています。艦長、我々も、いつ出撃命令が下ってもおかしくない状況です」

オルコットは、窓の外の灰域を見つめた。これまで漠然とした予感でしかなかった戦争が、今や、具体的な艦隊の展開図として、目の前に突きつけられていた。展開図の光点は、まるで夜空に散った無数の墓標のように、じわじわとその数を増やしていく。彼は、その一つ一つの光の奥に、まだ名前を持たない誰かの人生があることを、忘れまいとした。彼は、隣に座るセシルの手を、もう一度、静かに握った。彼女もまた、その手を強く握り返した。

もはや、開戦は時間の問題だった。二人が交わした誓いは、これから訪れる嵐の中で、どこまで守り抜けるものなのか、まだ誰にもわからなかった。それでも、オルコットは、その誓いを胸に、来るべき日々に立ち向かう覚悟を、静かに固めていた。窓の外に散らばる連邦艦隊の光点を見つめながら、彼は、これから始まるであろう長い戦いの中で、自分が失うことになるかもしれないものの重さを、静かに数え始めていた。

(第78話へ続く)