境界防衛艦隊がハルシオン軌道に到着したのは、連邦艦隊の先鋒が惑星軌道に達する、わずか六時間前だった。三度の短距離跳躍を経た《薄明》の船体は、冷却系の警告灯がいくつも点滅し、外殻には目に見えないほどの微細な歪みが蓄積していた。だが、艦は最後まで持ちこたえ、無事に軌道へと滑り込んだ。
「――間に合った」
オルデン提督の旗艦から、緊張した声が響いた。その声には、安堵と、これから始まる戦いへの覚悟の両方が滲んでいた。
「全艦、防衛陣形を構築せよ。民間人の避難を最優先に、防衛旅団と連携する」
《薄明》は、防衛艦隊の一角として展開した。オルコットは、艦橋でホロ図を睨んだ。青く輝く惑星ハルシオンの姿が、その中央に映し出されている。地表には、都市部の光がいくつも点在していた。あの光の一つひとつの下に、日常を送る人々の暮らしがある。オルコットは、それを守り抜くという使命の重さを、改めて噛みしめた。
かつて一度だけ寄港したときの記憶が、脳裏をよぎった。港湾区画に並んだ露天商、子供たちの笑い声、乾いた風に舞う砂埃の匂い。あの街並みが、今この瞬間も、そこに存在しているはずだった。だが、あと数時間のうちに、その日常が、戦火に呑まれるかもしれない。オルコットは、その想像を振り払うように、頭を軽く振った。今は、感傷に浸っている場合ではない。目の前の戦闘に、全神経を集中させる必要があった。
「連邦艦隊、規模は報告通りか」
「巡洋艦十二隻、駆逐艦三十四隻。加えて、兵員輸送艦八隻を確認しています」
「こちらの戦力は」
「境界防衛艦隊、巡洋艦四隻、駆逐艦十二隻、フリゲート多数。加えて、本国からの緊急増援が、あと十二時間で到着予定です」
「十二時間、持たせるしかないな」
ダーナの声には、隠しきれない緊張があった。数の上では、明らかに劣勢だった。だが、退くという選択肢は、そもそも存在しなかった。オルコットは、艦隊全体の戦力比を頭の中で改めて計算した。巡洋艦、駆逐艦の数だけを比べれば、境界防衛艦隊は連邦艦隊のおよそ三分の一の戦力しか持たない。それでも、灰域の地形と、こちらに分がある偵察情報を活かせば、互角以上に渡り合える余地はあるはずだった。少なくとも、そう信じるしかなかった。
連邦艦隊が、灰域を越えてハルシオン軌道へと接近してくる。オルデン提督の声が、艦隊全体に響いた。
「――これより、正式な交戦状態に入る。だが忘れるな、俺たちの目的は勝利ではない。民間人を守り抜くことだ」
その言葉に、艦橋の乗員たちの間に、静かな決意が広がるのをオルコットは感じた。勝利を目指すのではなく、時間を稼ぐこと。ただそれだけを目的とした戦いが、これから始まろうとしていた。
連邦艦隊の砲撃が始まった。境界防衛艦隊は、劣勢の中でも巧みな機動戦を展開し、正面からの決戦を避けながら、時間を稼ぐ戦術を取った。オルコットは、これまでの数々の戦闘で培った経験を総動員し、《薄明》を的確に指揮した。
「《薄明》、被弾!外殻損傷!」
「怯むな、陣形を維持しろ!」
砲撃の衝撃が、艦全体を揺らした。オルコットは、椅子の肘掛けを強く握りしめながら、次々と入ってくる報告に目を通した。損傷箇所、被害状況、隣接艦の状態――膨大な情報を、瞬時に処理し続けなければならなかった。
激しい砲撃戦の中、地表では、すでに連邦軍の先遣部隊が降下を開始していた。
「地上侵攻部隊、確認!ハルシオン防衛旅団と交戦開始!」
オルコットは、艦隊戦と並行して進む地上戦の報告に、拳を握りしめた。艦隊戦だけでも、これほどの緊張と消耗を強いられる。それが、地上でも同時に展開しているという事実に、彼は改めて事態の深刻さを実感した。
「防衛旅団、持ちこたえられるか」
「厳しい戦いになると思われます。相手の兵力は、防衛旅団の三倍以上です」
セシルが、通信卓の一角から、連邦艦隊の通信を傍受しながら報告を上げた。
「連邦艦隊の一部、通信内容から、艦砲の照準精度に若干の乱れが見られます。長距離跳躍による疲労の影響かもしれません」
「その乱れを突けるか」
「一時的にでも、こちらの機動を有利にできる可能性はあります」
「よし、その情報を各艦に共有しろ」
《薄明》を含む境界防衛艦隊は、セシルの分析を踏まえた機動を取り、連邦艦隊の照準の乱れを突く形で、被弾を最小限に抑えながら、着実に時間を稼いでいった。それでも、艦の損耗は避けられなかった。オルコットは、次々と届く損傷報告に、内心で歯を食いしばりながら耐え続けた。
灰域を挟んだ両国の対立は、ついに、民間人を巻き込む本格的な軍事衝突へと発展していた。それは、もはや誰の意図でもなく、積み重なった疑心暗鬼と報復の連鎖が、必然として辿り着いた結末だった。オルコットは、艦橋の窓から見える惑星の光を見つめながら、この光をこれ以上消させはしない、と改めて心に誓った。
戦闘開始から二時間が経過した頃、ダーナが被害状況をまとめて報告した。
「境界防衛艦隊、駆逐艦二隻が大破、後方へ離脱。フリゲート一隻、通信途絶。生存者の確認はまだ取れていません」
「――生存者は」
「まだ確認中です。乗員数、およそ九十名」
オルコットは、その数字を胸に刻んだ。九十人という乗員数が、まだ生きているのか、それとも既に失われたのか、今は分からない。だが、確認が取れ次第、必ず記録される。誰一人として、数字だけの存在として処理されることのないように。
「こちらの艦への被害は」
「外殻損傷、主に右舷側。戦闘継続には支障ありません。ただし、対艇迎撃システムの一部が損傷しています」
「修復は」
「機関長が対応中です。あと十五分ほどで、応急処置が完了する見込みです」
オルコットは頷き、視線を再びホロ図へと戻した。連邦艦隊は、数の優位を活かし、境界防衛艦隊を包囲するような陣形を取り始めていた。このままでは、いずれ各個撃破されかねない。
「――全艦、陣形を密集させろ。相互の支援射撃を優先する」
「了解。各艦に伝達します」
オルコットの指示に従い、境界防衛艦隊は、より密集した防御陣形へと移行した。単艦での被弾は増えるが、艦隊全体としての生存性は高まる。数的劣勢の中で、いかに時間を稼ぐか――それだけが、今のオルコットに課された唯一の課題だった。
窓の外、遠く離れた惑星の大気圏では、地上での戦闘の閃光が、かすかに見える気がした。それが実際の光なのか、それとも彼自身の想像が生み出した幻影なのか、オルコットには判別がつかなかった。ただ、地表で今この瞬間も戦っている者たちのことを思うと、艦橋で指揮を執る自分の緊張など、まだ耐えられる範囲のものだと、彼は自分に言い聞かせた。
戦闘が三時間目に入る頃、連邦艦隊の一部が、戦術を変えてきた。密集陣形を組む境界防衛艦隊の一角、比較的損傷の大きい艦を狙って、集中砲火を浴びせる動きを見せ始めたのだ。
「連邦艦隊、駆逐艦五隻が、こちらの左翼に集中しています!」
「――狙いは」
「左翼の損傷駆逐艦です。このままでは、数分と持ちません」
オルコットは、即座に判断を下した。
「《薄明》、左翼へ移動。援護射撃を行う」
「艦長、それでは本艦も危険に晒されます」
ダーナが、珍しく異論を口にした。だが、オルコットの決意は揺るがなかった。
「一隻を見捨てれば、次は別の一隻が狙われる。俺たちが崩れなければ、奴らも簡単には食い込めない」
《薄明》は、左翼へと急速に移動し、集中砲火を浴びる損傷艦の前面に割り込んだ。艦全体が、着弾の衝撃で激しく揺れた。
「被弾、続いています!外殻、限界に近づいています!」
「耐えろ!踏ん張れ!」
オルコットは、歯を食いしばりながら、その揺れに耐えた。数分間の激しい応酬の末、連邦艦隊の集中砲火は、ようやく分散し始めた。損傷艦は、辛うじて後方への離脱に成功した。
「――損傷艦、離脱に成功しました」
ダーナの声に、艦橋にわずかな安堵が広がった。だが、その代償として、《薄明》自身の損傷も、無視できない水準にまで達していた。
「こちらの状態は」
「外殻損傷、四十パーセント。まだ戦闘継続は可能ですが、これ以上の集中砲火には耐えられません」
オルコットは、その報告を受け止めながら、増援到着までの残り時間を、頭の中で改めて計算した。まだ、あと九時間近くある。長い夜になることを、彼は覚悟した。
セシルが、傍受した連邦艦隊の通信の変化を報告してきた。
「連邦艦隊の指揮官、苛立ちを見せ始めています。予定より時間がかかっていることに、司令部から催促を受けているようです」
「――向こうにも、時間の制約があるということか」
「はい。連邦国内では、この作戦の成功が、すでに既定路線として報じられ始めています。長引けば長引くほど、彼らにとっても都合が悪くなるはずです」
その情報は、オルコットにとって、ささやかな希望の材料だった。数の上では劣勢でも、時間を稼ぐことができれば、相手の焦りを誘い、判断ミスを引き出せるかもしれない。
「――全艦へ通達。焦らず、防御を優先しろ。時間は、こちらの味方だ」
ダーナが、その指示を各艦へと伝達した。艦橋の空気には、依然として緊張が満ちていたが、絶望的な劣勢という空気は、わずかに和らいでいた。窓の外では、砲撃の閃光が、途切れることなく続いていた。
(第66話へ続く)