灰域衝突事件――後にそう呼ばれることになる交戦の翌日、両国政府は緊急の外交チャンネルを通じて接触した。
一夜明けても、《薄明》の艦内には昨日の戦闘の余韻が色濃く残っていた。負傷者の治療は続き、損傷した外殻の応急修理に、整備班が交代で当たっていた。オルコットは、艦内を一巡した後、作戦本部からの緊急招集を受けて司令部へと向かった。廊下ですれ違う乗員たちの顔には、まだ拭いきれない疲労と緊張が張り付いていた。
「――双方とも、全面戦争は望んでいない、というのが本国の見立てです」
ラスクが、緊迫した表情で作戦本部に報告した。彼の声にも、いつもの冷静さの奥に、隠しきれない疲れが滲んでいた。
「連邦政府も、これが偶発的な衝突だと認識しているようです。ただし、双方とも、これを『相手の攻撃的意図の表れ』として国内向けに発表せざるを得ない状況にあります」
「矛盾しているな」
オルコットは呟いた。
「本音では衝突を望んでいないのに、建前では相手を非難せざるを得ない。それが、また次の衝突の火種になる」
ラスクは小さく頷いた。
「その通りです。だからこそ、今回の対応を誤れば、この矛盾がそのまま本格的な開戦の引き金になりかねません」
ドーベル少将が険しい顔で言った。
「臨時停戦交渉が、中立地区――ヴェスタ港で行われることになった。双方の代表団が、明日にも会合を持つ」
「ヴェスタ港、ですか」
オルコットにとって、それはセシルと初めて出会った場所でもあった。皮肉な巡り合わせだった。技術交流会議という、本来なら和やかな場であったはずのあの港が、今度は敵対する二国の緊張を繋ぎ止める場所になろうとしている。オルコットは、その巡り合わせに、運命の悪戯めいたものを感じずにはいられなかった。
「代表団の構成は」
「連邦側はまだ未定です。同盟側は、私とドーベル少将が代表を務めます。艦長には、護衛任務として同行していただきたい」
「――了解しました」
翌日、《薄明》はヴェスタ港へと向かった。港に近づくにつれ、オルコットの脳裏には、あの技術交流会議の日の記憶が蘇ってきた。あの日、セシルと交わした最初の言葉、彼女の硬い表情、そして少しずつ打ち解けていった時間。あれから、まだ一年も経っていないという事実が、彼には信じられなかった。
港に接舷する際、オルコットは甲板からヴェスタ港の全景を見渡した。中立地区特有の、雑然としながらも活気のある港湾施設。様々な国籍の商船や民間船が行き交う光景は、灰域での緊張とはまるで別世界のように穏やかだった。だが、その穏やかさもまた、いつまで保たれるか分からない、脆いものであることを、オルコットは知っていた。
「艦長、代表団の到着まで、あと一時間です」
レフの報告に、オルコットは頷いた。
「乗員には、港での不用意な言動を控えるよう、改めて周知してくれ。今は、些細な摩擦も命取りになりかねない」
「了解しました」
停戦交渉は、緊迫した空気の中で行われた。ヴェスタ港の中立会議場には、両国の代表団が向かい合って着席し、双方の護衛艦艇が港の外周を固めていた。会議場の窓からは、中立地区特有の、どちらの国旗も掲げられていない港湾の光景が見えた。かつてセシルと初めて言葉を交わした技術交流会議の会場も、この近くにあったはずだった。
双方とも、衝突の責任を相手に押し付けようとする駆け引きが続いた。連邦側の代表は、《ライゲル》の発砲を「同盟の電子妨害への正当な反撃」だと主張し、同盟側は「一方的な武力行使」だと反論した。交渉は、何度も決裂しかけた。
「――《ライゲル》の艦長は、独断で発砲したのか、それとも上層部の指示があったのか。連邦側は、その点を明確にしていません」
会議の休憩時間、ラスクがオルコットに耳打ちした。
「どちらだと思う」
「恐らく独断でしょう。ですが、連邦側がそれを認めれば、指揮系統の混乱を国内外に晒すことになる。だから、明確にはしない」
「――責任の所在を曖昧にすることが、双方にとって都合が良い、というわけか」
「皮肉なものです。真実を追及することが、必ずしも平和に繋がるとは限らない」
オルコットは、その言葉に、外交というものの重い現実を感じた。現場で命をやり取りする者たちにとっての真実と、政治の場で扱われる「事実」との間には、埋めがたい溝があった。
「――双方の主張の隔たりは、埋まりそうにないな」
オルコットは、会議場の外で待機しながら、漏れ聞こえてくる交渉の様子に耳を傾けていた。護衛任務とはいえ、この交渉の行方が、自分たちの今後を左右することを、彼は痛いほど理解していた。
長時間に及ぶ交渉の末、最終的には「双方の艦艇による偶発的な誤射が原因」という、玉虫色の共同声明でまとまることになった。責任の所在を曖昧にすることで、双方の面子を保ちながら、事態のこれ以上の悪化を防ぐ――外交というものの、ある種の知恵であり、同時に欺瞞でもあった。
声明文には、犠牲者への哀悼の意も、簡潔な一文として盛り込まれた。「双方の艦艇乗員の尊い犠牲に、深い哀悼の意を表する」――たった一文だったが、オルコットには、その一文が、失われた命の重みに比べてあまりにも軽く感じられた。それでも、何も記されないよりは、遥かに良いのだと、彼は自分に言い聞かせた。
交渉の終了後、ドーベル少将がオルコットに声をかけた。
「艦長、護衛任務、ご苦労だった。今回の交渉、あなたの存在が、思いのほか役に立った」
「私は、何もしていません」
「いや。あなたがこの場にいるというだけで、連邦側の代表団の態度が、幾分和らいでいた。理由は分かるだろう」
ドーベルの視線が、会議場の隅に控えるセシルへと向けられた。オルコットは何も答えなかったが、少将の言葉の意味を、痛いほど理解していた。
「――一時的な、綱渡りの停戦だな」
オルコットは、交渉の結果を聞いて呟いた。
セシルが隣で頷いた。彼女もまた、連邦側の技術顧問として、非公式にこの交渉の場に呼ばれていた。二人が並んで立つことができるのは、こうした公的な場でしかない。それもまた、二人の関係が置かれている状況の皮肉さを物語っていた。
「根本的な対立は、何も解決していません。ただ時間を稼いだだけです」
「時間を稼げただけでも、意味はある」
「そうでしょうか」
セシルの声には、拭いきれない不安があった。
「時間を稼ぐたびに、両国はその時間を、次の衝突への準備に使っています。自律無人艦の配備計画も、同盟の対抗艦隊建造も、止まってはいません」
オルコットは、彼女の言葉を否定できなかった。停戦とは名ばかりで、両国は着実に、次の、より大きな衝突への準備を進めていた。彼は、昨日の戦闘で失われた乗員たちの顔を思い出した。あの犠牲の上に築かれた、この束の間の平穏を、簡単に無駄にするわけにはいかない――そう強く思う一方で、自分にできることの小ささにも、改めて気づかされていた。
「セシル、君は、今回の交渉に立ち会って、何を感じた」
オルコットは尋ねた。
「――虚しさ、でしょうか」
セシルは正直に答えた。
「双方とも、本音では戦争を望んでいない。それなのに、面子と体裁のために、曖昧な言葉で事態を丸め込むしかない。もっと単純に、お互いが謝罪し合えば済むはずのことなのに」
「国家というものは、個人のようには謝れない生き物なんだろう」
「――嫌になりますね、そういうところ」
セシルは小さく息を吐いた。その横顔に、オルコットは、彼女がこの一年で背負ってきたものの重さを見た気がした。
「――俺たちにできることは」
「今は、鍵が安全な場所にあることを、信じ続けることだけです」
セシルの言葉に、オルコットは静かに頷いた。鎮魂会の巡礼船に匿われている鍵――あの記憶結晶の束と紙の台帳三冊が、今この瞬間も、静かにその存在を秘め続けている。両国がどれほど疑心暗鬼を募らせようとも、あの場所にだけは、まだ手が届いていないはずだった。その一点だけが、オルコットにとっての、数少ない確かな拠り所だった。
港を離れる直前、オルコットは最後にもう一度、セシルと視線を交わした。言葉にせずとも、互いの覚悟を確かめ合うような、短い一瞬だった。この先、二人がどのような道を歩むことになるにせよ、少なくとも今この瞬間、彼らは同じ方向を見ていた。
ラスクが、離れゆく港を見つめながら、独り言のように呟いた。
「――次にこの場所で会う時は、もっと良い知らせを持ってきたいものだな」
「同感です」
オルコットは、その願いが、単なる願望で終わらないことを、静かに祈った。
灰域の暗闇の中、束の間の平穏が、いつまで続くのか、誰にもわからなかった。ヴェスタ港を離れる《薄明》の甲板から、オルコットは遠ざかる港の灯りを見つめながら、この場所で出会った日から積み重ねてきた時間の重さを、静かに噛みしめていた。
灰域へと戻る航路の途中、オルコットは艦長室で、今回の停戦の顛末を記録に残した。公式報告書には書けないことも多かったが、彼は個人的な航海日誌に、自分の言葉でこの数日間の出来事を書き留めておくことにした。撃沈された艦の名前、負傷した乗員の名前、そして玉虫色の共同声明の一文――それらを、後世の誰かが正確に振り返られるように、できる限り具体的に記していった。
数字だけを残せば、いつか忘れられてしまう。だが、名前と共に記録すれば、少なくとも自分が生きている限りは、その重みを忘れずにいられる。そう信じて、オルコットはペンならぬ端末のキーを、静かに叩き続けた。
(第55話へ続く)