同盟軍は、灰域沿いに新設された「境界防衛艦隊」への艦艇再編を進めた。《薄明》もまた、その傘下に組み込まれることになった。
その報せは、いつもと変わらぬ朝の点呼の後に届いた。オルコットが艦長室で朝の報告書に目を通していると、ダーナが辞令の書類を手に、少し緊張した面持ちで入ってきた。艦内には、いつもと変わらぬ稼働音が響いていたが、その静かな日常もまた、間もなく大きく形を変えることになるのだと、オルコットはまだこの時点では、はっきりとは意識していなかった。
「艦長、正式な辞令です」
ダーナが手渡した辞令には、《薄明》を含む第七哨戒隊が、境界防衛艦隊隷下に編入される旨が記されていた。オルコットは、書類の文面を一度読み、それからもう一度、細部まで確認するように読み返した。
「これまでの非公式な任務から、正規の軍務に戻る、ということか」
「そのようです。ただ――」
ダーナは声を潜めた。
「境界防衛艦隊の指揮官は、レイフ・オルデン提督。強硬派として知られる人物です。艦長のこれまでの動きを、快く思っていない可能性があります」
オルコットは小さく息を吐いた。鍵の奪取という非公式の任務を影で支えてきた身としては、正規軍の強硬派指揮官の下で働くことに、少なからぬ緊張を覚えた。これまでは、ラスクやドーベル少将という、事情を理解した上官の裁量の下で動くことができていた。だが、これからは、そうした裏の事情を知らない、あるいは知っていてなお敵意を隠さない指揮官の下で、任務を遂行しなければならない。
「オルデン提督について、他に何か知っていることは」
「艦隊勤務歴は長く、実戦経験も豊富です。ただ、部下への評価は厳しく、失点には容赦がないという噂です。以前の部下の中には、些細な判断ミスを理由に、更迭された艦長もいるとか」
「――望むところだ、と言いたいところだが」
オルコットは苦笑した。今の《薄明》には、正規の記録に残らない任務の数々が、影のように付きまとっている。その事実が、これからの艦隊生活にどう影響するか、彼にはまだ読み切れなかった。
「乗員たちの反応は」
「動揺している者もいます。特に、非公式作戦に直接関わってきた古参の乗員たちは、正規の指揮系統に組み込まれることで、これまでの活動がどう扱われるのか、不安を感じているようです」
オルコットは、その報告に頷いた。乗員たちの不安は、彼自身の不安とそのまま重なるものだった。だが、艦長である以上、その不安をそのまま表に出すわけにはいかない。
「乗員には、俺から直接話す。招集をかけてくれ」
「わかりました」
その日の午後、オルコットは《薄明》の全乗員を格納庫に集め、境界防衛艦隊への編入について、自らの言葉で説明した。
「これまで、諸君らには、正規の記録に残らない任務で、多くの労苦をかけてきた。感謝している。これからは、正規の艦隊の一員として、灰域の防衛にあたることになる。任務の性質は変わるが、俺たちがやるべきことの本質は変わらない。仲間を守り、生きて帰る。それだけだ」
乗員たちの間に、静かな安堵の空気が広がるのを、オルコットは感じ取った。彼らが求めていたのは、大仰な激励の言葉ではなく、これまでと変わらぬ艦長の姿勢だったのだろう。
着任の挨拶は、境界防衛艦隊の旗艦に据えられた広い会議室で行われた。壁一面に灰域全体の立体地図が投影され、その中に無数の艦影のアイコンが点在していた。緑のアイコンは同盟艦、赤は連邦艦、そしてその狭間に、いくつもの警戒監視ポイントを示す黄色い光点が点滅していた。会議室に集まった各艦の艦長たちは、皆一様に、これから始まる新体制への緊張を隠せない様子だった。
オルデン提督は、その地図の前に立ち、集まった各艦の艦長たちを一人ずつ見渡していた。彼の体格は、決して大柄ではなかったが、放たれる圧のようなものが、部屋の空気を張り詰めさせていた。オルコットの番になると、提督はオルコットを一瞥し、素っ気なく言った。
「――お前が、噂のオルコット艦長か。参謀本部の裏仕事に精を出していたそうだな」
その声には、隠しきれない棘があった。会議室の空気が、一瞬にして張り詰めるのを、オルコットは肌で感じた。
「任務命令に従っていただけです」
「命令書に残らない任務、というのはどういうことだ」
オルコットは答えなかった。この場でどう答えても、事態を悪化させるだけだと、彼は瞬時に判断していた。オルデンは鼻を鳴らした。
「まあいい。今のお前に求めるのは、ただ一つだ。境界防衛艦隊の一員として、連邦の脅威から灰域を守れ。それだけだ」
「――了解しました」
「一つ言っておく」
オルデンは、地図の上の緩衝線を指し示しながら続けた。
「俺は、お前のこれまでのやり方に、興味はない。だが、この艦隊にいる限り、俺の指揮系統の外で勝手に動くことは許さん。次に何か裏でやるつもりなら、まず俺に筋を通せ。それだけは覚えておけ」
その言葉には、単なる威圧以上の、ある種の公平さのようなものが滲んでいた。オルコットは、その一言に、この提督が単なる好戦的な強硬派というだけの人物ではないのかもしれない、という予感を覚えた。
「――肝に銘じます」
オルコットは短く答えた。会議室を出る際、他の艦長たちの視線が、探るようにオルコットへ向けられているのを感じた。噂は、すでに艦隊全体に広まっているのだろう。良くも悪くも、自分は今、注目される存在になっている。その事実を、彼は静かに受け止めた。
廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。会議室の重苦しさから解放され、オルコットは初めて、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
会議を終え、艦へ戻る道すがら、オルコットはセシルと合流した。彼女は今や、境界防衛艦隊付きの技術顧問という立場を得ていた。灰域の空気を映すように、彼女の表情にも、以前より一段深い緊張の色が滲んでいた。
「――オルデン提督、どう思われましたか」
「わかりやすい人だ。良くも悪くも」
「連邦にも、似たような人物は大勢います。国家という枠組みは、いつもそういう人間を必要とするものなのかもしれません」
セシルの言葉に、オルコットは複雑な思いを抱いた。国家という装置は、恐怖を糧に、強硬な人間を必要とし、育て上げていく。連邦のヴィスも、同盟のオルデンも、同じ構造の産物なのかもしれなかった。
「――俺たちがやったことは、この構造そのものを変える力にはならなかったのかもしれない」
「それでも」
セシルは静かに言った。
「鍵だけは、この構造の外にあります。それだけは、変わらない事実です」
通路を照らす照明の一つが、わずかに明滅していた。整備の行き届いていない証だろうと、オルコットはぼんやり思った。灰域の緊張が高まるにつれ、こうした細部にまで人手が回らなくなっていることを、彼は肌で感じていた。
「あなたは、いつもそう言って、俺を繋ぎ止めてくれる」
オルコットが呟くと、セシルは小さく首を振った。
「繋ぎ止めているのではありません。ただ、私自身が、その事実に縋っているだけです」
二人は、しばらくの間、無言のまま並んで歩き続けた。ステーションの通路を吹き抜ける空調の音だけが、静かに響いていた。すれ違う整備兵たちの足音も、いつになく重く感じられた。
二人は、しばらくの間、無言のまま並んで歩いた。ステーションの通路の窓越しに、境界防衛艦隊に配属されたばかりの新造艦の艦影が、いくつも並んで見えた。その艦影の一つ一つに、これから乗り込むことになる乗員たちの人生が、確かに存在している。オルコットは、その事実を思うと、この軍拡の歯車が単なる数字の羅列ではないことを、改めて実感せずにはいられなかった。
「――《薄明》の乗員たちには、この編入をどう伝えるつもりですか」
セシルが尋ねた。
「いつも通りだ、と伝えるつもりだ。所属が変わっても、俺たちのやることは変わらない。灰域を守り、乗員を無事に連れ帰る。それだけだ」
「それが、あなたらしいやり方ですね」
セシルは、小さく微笑んだ。
《薄明》へ戻った後、オルコットは艦長室の窓から、境界防衛艦隊の艦影を改めて見渡した。以前は数隻程度だった艦隊規模が、今や二十隻を超えようとしている。その数字の伸びが、この数か月の緊張の高まりを、何よりも雄弁に物語っていた。
「艦長」
ダーナが、静かに声をかけた。
「これから、俺たちはどうなるんでしょうか」
「わからない。だが、オルデン提督の言葉には、一理あった。裏でこそこそ動く時代は、そろそろ終わりにするべきなのかもしれない」
「正規の艦隊として、正々堂々と灰域を守る、ということですか」
「そういうことだ。ただし――」
オルコットは、窓の外の暗闇を見つめながら続けた。
「正々堂々とした軍務の裏で、鍵の行方だけは、誰にも気づかれないように守り続ける。それが、これからの俺たちの仕事だ」
灰域の暗闇の向こうに、新設された境界防衛艦隊の艦影が、静かに並んでいるのが見えた。オルコットは、その光景を目に焼き付けながら、これから始まる新たな任務の日々に、静かに思いを馳せていた。強硬派の指揮官の下での軍務が、これまでの非公式な戦いとどう違うものになるのか、彼にはまだ、正確には見通せていなかった。
(第51話へ続く)