同盟政府内では、レティシアの一件と狙撃事件を受け、強硬派の発言力が急速に強まっていた。
「――連邦は、明確に我々への敵対行動を強めている。今こそ、防衛力を強化すべきだ」
議会中継のホロ映像で、強硬派の代表格である議員が声を張り上げているのを、オルコットは艦長室で眺めていた。映像の中の議員は、拳を机に打ちつけるようにして持論を展開していた。傍聴席からは、賛同の拍手がまばらに起きているのが見えた。オルコットは、その拍手の音の大きさに、世論の空気が少しずつ傾き始めていることを感じ取った。
議員は、レティシアでの入植地襲撃事件と、ラスクへの狙撃事件を、次々と引き合いに出した。
「入植地の同胞たちが、正体不明の武装勢力に脅かされている。政府高官が、白昼堂々と狙撃される。これが平時と呼べるでしょうか。もはや、我々は事実上の交戦状態にあると認識すべきです」
演説には、具体的な数字も織り込まれていた。過去半年間の越境件数、負傷者数、そして提案されている追加予算の総額。オルコットは、その数字の羅列が、聴衆の不安を煽るための道具として、実に巧みに配置されていることに気づいた。数字そのものは嘘ではない。だが、並べ方一つで、事実は簡単に別の顔を見せる。
「艦長も、ご覧になっていましたか」
ダーナが入ってきて言った。彼女の手には、艦の定期報告書が挟まれていたが、今はそれよりも議会中継の方に意識を向けているようだった。
「ああ。……皮肉なものだな。俺たちが鍵を奪ったのは、両国の軍拡競争を止めるためだった。それが結果として、同盟側の軍拡を加速させている」
「歴史の皮肉、というやつでしょうか」
「いや、単純な力学だろう。恐怖は、恐怖でしか対抗できないと、誰もが思い込んでいる」
オルコットは、そう言いながらホロ映像を消した。画面が暗くなると、艦長室には静かな沈黙が戻った。彼はしばらくの間、消えた画面をぼんやりと見つめ続けた。
「艦長は、防衛力強化そのものには、反対なのですか」
ダーナが尋ねた。
「いや。純粋な防衛のための備えなら、否定はしない。俺が恐れているのは、その防衛という名目が、いつの間にか攻撃のための備えにすり替わっていく速度だ」
「具体的には、どういうことですか」
ダーナが尋ねた。
「今は、境界防衛艦隊の増強という話に留まっている。だが、この手の議論は、一度動き出すと止まらない。防衛のための艦隊が、いずれ『先んじて叩くための戦力』へと看板を掛け替える日が来る。歴史を見れば、その手の転換はいつも、驚くほど滑らかに起きるものだ」
ダーナは、その言葉に黙り込んだ。彼女もまた、艦隊勤務が長い分、その種の危うさを肌で理解しているようだった。
「艦長は、これまでにもそういう転換を、見てきたのですか」
「直接ではない。だが、記録には残っている。過去の紛争史を紐解けば、似たような経緯はいくらでも見つかる。防衛のためと称して整えられた戦力が、結局は最初の一撃を放つ側に回った例は、決して少なくない」
議会は、自律無人艦開発計画への対抗予算を正式に可決した。連邦の自律核配備計画に対抗する形で、同盟もまた同様の技術開発に着手することになった。可決の報は、艦内の共有端末を通じて全乗員に通知され、オルコットはその文面を何度も読み返した。予算額、開発期間、想定される配備時期――どの数字も、これまでの想定より前倒しされたものだった。
可決された予算の総額は、同盟軍の年間艦隊維持費の三割に迫るものだった。その規模の大きさに、オルコットは思わず息を呑んだ。これほどの資源を、たった一つの技術開発計画に投じるという決断は、平時であれば議会をまとめるだけで数年を要しただろう。それが、わずか数週間の審議で通過した。恐怖という燃料は、政治的な合意形成の速度すら、ここまで加速させてしまう。
「この予算があれば、境界防衛艦隊の艦艇を何隻増やせたか、艦長は計算されましたか」
ダーナが、資料を見ながら呟いた。
「考えたくもない数字だろうな」
オルコットは短く答えた。だが、頭の中では、すでにその概算が浮かんでいた。フリゲート換算で、およそ十二隻分。灰域の哨戒網を、今の倍近くに拡充できる規模だ。その資源が、実戦配備前の開発計画に費やされることの意味を、彼は重く受け止めていた。
「――皮肉すぎる」
オルコットは呟いた。
「俺たちが恐れていたのは、まさにこれだ。国家が、生殺与奪の力を手にすることへの恐怖。それを止めようとした行動が、両国双方に、その力への渇望を加速させている」
「艦長」
ダーナが、珍しく躊躇いがちに口を開いた。
「私たちがやったことは、本当に無意味だったのでしょうか」
「――いや」
オルコットは、しばらく考えてから、はっきりと首を振った。
「鍵そのものは、正しい場所にある。少なくとも、あの鍵だけは、この軍拡競争の埒外に置くことができた。もしあれが同盟か連邦、どちらか一方の手に渡っていたら、事態はもっと早く、もっと悪い方向に転がっていたはずだ」
「それを、信じていいんですね」
「信じるしかない。今の俺たちには、それ以外に縋るものがない」
ダーナは、その言葉に小さく頷いた。彼女の表情には、まだ完全には拭いきれない不安が残っていたが、それでも幾分か落ち着きを取り戻したように見えた。
ラスクが、狙撃事件からの回復期にもかかわらず、オルコットの元を訪れた。彼の額には、まだ絆創膏の跡が薄く残っていた。
「艦長、鍵を鎮魂会に託したことは、間違いだったと思いますか」
「――いや」
オルコットは首を振った。
「鍵そのものは、正しい場所に渡った。だが、鍵を奪ったという『行為』が引き起こした波紋は、俺たちの想定を超えている。両国とも、疑心暗鬼に陥り、それぞれの恐怖を軍拡で埋めようとしている」
「止める方法は」
「わからない。だが、少なくとも鍵だけは、この流れに巻き込まれずに済んでいる。それだけが、今の唯一の救いだ」
ラスクは、しばらく黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「――参謀本部でも、同じ議論が繰り返されています。あの作戦は正しかったのか、と。私自身、答えを持ち合わせていません。ただ、一つだけ確かなのは、あの鍵が国家の手にあったなら、今頃はもう、実戦配備の秒読みに入っていたということです」
「それだけは、間違いない」
オルコットは頷いた。
「艦長は、後悔していますか」
ラスクの問いに、オルコットは少し間を置いてから答えた。
「後悔はしていない。だが、覚悟が足りていなかったとは思う。鍵を奪う覚悟はあった。だが、その後に起きるすべての波紋を受け止める覚悟までは、正直、持ち合わせていなかった」
窓の外に浮かぶ工事灯の群れを見つめながら、オルコットはさらに続けた。
「あの夜、デルフォスで鍵を手にした時、俺はただ、これで一つの脅威が消えたと思った。だが実際には、脅威は消えたんじゃない。形を変えて、こうして俺たちの目の前に戻ってきているだけなんだろう」
「誰にも、持ち得ない覚悟だと思います。未来のすべてを見通せる人間などいません」
「それでも、俺たちは動いた。動いた以上、結果には責任がある」
二人はしばらくの間、無言のまま、艦長室の窓の外を眺めていた。
窓の外、ハイド・ステーションの軌道上に、新造艦の建造を示す工事用の光が、以前より数多く瞬いているのが見えた。その光の数は、ここ数週間で明らかに増えていた。ドックに並ぶ艦影のシルエットも、以前より一回り大きく、武骨なものに変わりつつあった。
「あの光の数が、俺たちの恐怖の総量なんだろうな」
オルコットが呟くと、ラスクは小さく笑った。それは、いつもの皮肉めいた笑みではなく、どこか力の抜けた、疲れた笑みだった。
「詩的な表現ですね、艦長らしくもない」
「柄でもないことは、わかっている」
ラスクは、窓の外の光を見つめたまま、独り言のように付け加えた。
「――俺たちの世代が始めたことの後始末を、次の世代に押し付けずに済めばいいのですが」
その言葉に、オルコットは何も返さなかった。ただ、その懸念が、決して杞憂では終わらないだろうという予感だけが、彼の胸の内に静かに沈んでいった。
軍拡という名の歯車が、静かに、しかし確実に回転を始めていた。オルコットは、その回転音を聞き取ろうとするかのように、しばらくの間、窓の外の光を見つめ続けていた。彼の脳裏には、あの日デルフォスで見た光景、そして数年前に目撃した自律核実弾試験の惨状が、繰り返し交錯していた。あの時に抱いた確信は、今も変わらず彼の中にあった。だが、その確信だけで、この巨大な流れを押し止められるのかどうか、彼にはまだ答えが見えていなかった。
ラスクが去った後、オルコットは一人、艦長室に残った。彼は艦長日誌の端末を開き、今日の出来事を記録し始めた。議会の可決、予算の規模、ラスクとの会話――どれも、後に振り返った時、この時代の空気を伝える記録になるはずだった。だが、書き記しながら、彼はふと手を止めた。この記録もまた、いつか誰かに読まれる日が来るのだろうか。それとも、鍵と同じように、歴史の片隅に埋もれたまま、誰の目にも触れずに終わるのだろうか。
彼は、その問いに答えを出せないまま、端末を閉じた。艦長室の照明を落とし、しばらくの間、椅子に深く身を沈めた。窓の外では、工事用の光が、変わらぬ規則正しさで瞬き続けていた。
(第47話へ続く)