連邦の矛先は、同盟だけに向けられていたわけではなかった。

その一報が入ったのは、《薄明》が短い定期補給のためにハイド・ステーションに帰投していた合間のことだった。オルコットは艦の点検報告を確認していたところで、通信端末に緊急連絡の表示が浮かんだ瞬間、嫌な予感を覚えた。デルフォスでの一件以来、緊急連絡という文字を見るたびに、彼の中では条件反射のように緊張が走るようになっていた。良い知らせが届いた例しは、ほとんどなかった。

「――鎮魂会の巡礼船に、連邦の哨戒艦が接触したそうです」

アダムからの緊急連絡が、オルコットの元に届いた。彼の声はいつもより早口で、事態の切迫を物語っていた。

「臨検を要求してきたとのことです。院長は拒否しましたが、連邦側は『失われた国家資産の捜索』という名目を持ち出してきたと」

オルコットは眉をひそめた。連邦は、鍵そのものの存在を公にはできない。だが、非公式にはすでに、鎮魂会が何かを匿っている可能性を疑い始めているのかもしれない。彼は端末の画面を睨みながら、連邦側がどこまで確証を掴んでいるのか、必死に頭の中で情報を組み立てようとした。

「院長の様子は」

「動じてはいません。ただ、鎮魂会内部でも、意見が割れ始めています」

「割れている、とは」

「一部の司教たちが、『国家との無用な対立を避けるべきだ』と主張しています。院長の判断で鍵を受け入れたことに、批判的な声も出てきているようです」

「その司教たちの名は、わかっているのか」

「三名ほど、名前が挙がっています。いずれも、鎮魂会内部でも古参の重鎮です。表立って院長を批判しているわけではありませんが、若い修道士たちの間に、静かに懸念を広めているとのことです」

オルコットは、その報告に奇妙な既視感を覚えた。同盟政府内の強硬派と穏健派の対立、連邦内部での隠蔽体質と良心の相剋――どの組織にも、同じような構図が繰り返し現れる。人間の集団というものは、結局のところ、恐怖と信念のせめぎ合いから逃れられない仕組みでできているのかもしれない。

オルコットは、鎮魂会という組織もまた一枚岩ではないことを、改めて思い知らされた。弔いという本分を掲げながらも、内部には様々な立場と思惑が存在する。考えてみれば当然のことだった。信仰に生きる者たちであっても、彼らもまた人間であり、恐怖や打算から自由ではいられない。

彼は、自分がラスクとともにこの一件に関わり始めた当初の日々を思い出していた。鍵を鎮魂会に託すという着想は、国家という枠組みそのものへの不信から生まれたものだった。だが、その不信を託した先もまた、一枚岩の聖域ではなく、人間の営みが渦巻く一つの組織に過ぎない。その事実に、今更ながら気づかされる思いだった。

「院長を支える方法は」

「今のところ、私たちにできることは多くありません。ただ、院長は『鍵は燃やすための道具にはしない』という初志を、頑として譲らずにいます」

その言葉に、オルコットは何かが胸の奥で軋むのを感じた。鍵を託すという判断は、あの時、自分たちにとって最善の選択に思えた。だが、その選択が老いた一人の修道院長に、これほどの重圧を強いる結果になるとは、当時どこまで想像できていただろうか。

数日後、オルコットはラスクとともに、非公式に鎮魂会の巡礼船を訪ねた。訪問は極秘裏に行われ、同盟軍の識別章を外した小型艇での接舷となった。万が一にも、鎮魂会と軍の接触が公になれば、反対派の司教たちに格好の材料を与えることになる。オルコットは、そのことをラスクから何度も念を押されていた。

巡礼船の内部は、質素だが清潔に保たれており、金属の壁面には長年の航行で刻まれた無数の小さな傷が、静かな歴史を物語っていた。空気には、香炉から漂う独特の香りが薄く満ちていて、それがこの船の持つ独特の静けさを、より一層深いものにしていた。通路を歩く修道士たちは、皆一様に静かな足取りで、オルコットたちに軽く会釈をするだけで、多くを語ろうとはしなかった。

グラン院長は、以前と変わらぬ穏やかな表情で二人を迎えた。彼の背後の壁には、これまでこの巡礼船が弔ってきた者たちの名を記した、長大な巻物が掛けられていた。オルコットは、その巻物の分厚さに、この修道会が担ってきた弔いの歴史の重みを見た気がした。名前は判読できないほど小さな文字で連なり、端から端まで隙間なく書き込まれていた。

「お茶を、いかがですか」

院長は、自ら茶器を手に取り、二人に勧めた。質素な陶器のカップから立ち上る湯気が、狭い船室の空気をわずかに和らげた。その手つきは、長年繰り返されてきた儀式のように、静かで無駄がなかった。

「――ご心配をおかけしているようですね」

グラン院長は、二人を席へと促しながら、静かに言った。

「院長、内部の反対派について伺いました」

オルコットが切り出すと、院長はゆっくりと頷いた。

「ええ。信仰に生きる者たちの間にも、恐れはあります。国家という巨大な力と対立することへの恐れは」

「院長ご自身は」

グランは静かに微笑んだ。彼の目尻の皺が、長い年月を物語っていた。

「私はもう長く生きました。恐れるべきものは、そう多くありません。それに――」

彼は窓の外、灰域の暗闇を見つめた。船の小さな丸窓から差し込む星明かりが、彼の白い髭をわずかに照らしていた。

「鍵を受け入れた時点で、この道はすでに選んでいます。今更、恐れで引き返す道理はない」

「ですが、院長」

ラスクが、珍しく踏み込んだ口調で言った。

「反対派の司教たちの声が、いずれ院長の立場そのものを脅かす可能性もあります。組織内の権力構造が変われば、院長のお考えが、そのまま鎮魂会の意志であり続けるとは限りません」

グランは、ラスクの言葉に静かに耳を傾けた後、ゆっくりと口を開いた。

「参謀殿のおっしゃる通りでしょう。私が院長の座を退けば、あるいは反対派が力を持てば、鍵の行く末は私の手を離れます。ですが、それもまた、この道を選んだ時点で覚悟したことです。一人の人間の意志だけで、何かを永遠に守り続けられるなどとは、私も思っておりません」

その言葉に、オルコットは深く頭を下げた。だが同時に、この老人一人の意志だけでは、いずれ組織全体を支えきれなくなる日が来るのではないかという、拭いきれない不安も感じていた。船室の壁に掛けられた巻物の名前の連なりが、その不安を裏付けるかのように、静かに揺れて見えた。

院長のカップから立ち上る湯気が、静かに揺れて消えていくのを、オルコットはしばらく見つめていた。

「――院長、私たちにできることがあれば」

「ありがとうございます、艦長。ですが、これは私たちの内部の問題です。あなた方が直接介入すれば、かえって『国家が教団に干渉している』という、反対派の主張を裏付けることになりかねません」

グラン院長は、そう言って静かに首を振った。彼のその判断の速さに、オルコットは長年組織を率いてきた者の重みを感じ取った。

グランの言葉は的確だった。オルコットは、自分の申し出がいかに浅慮であったかを思い知らされた。彼はこれまで、戦闘や作戦立案においては、常に手を動かし、結果を出すことで問題を解決してきた。だが、この場においては、動かないことこそが最善の支援になる。その事実が、彼にはひどくもどかしく感じられた。

「では、せめて――院長のお体のことは、伺ってもよろしいですか」

オルコットが尋ねると、グランは穏やかに笑った。

「老いた体です。ですが、まだこの役目を放り出すわけにはいきません。反対派の司教たちも、私が急に倒れでもしない限り、性急な行動には出ないでしょう。ただ、それも時間の問題かもしれませんが」

その軽い口調の奥に潜む切実さを、オルコットは聞き逃さなかった。院長という一人の老人の健康が、鍵の運命を左右しかねない――そんな危うい均衡の上に、今この状況は成り立っている。

「――では、我々は何もできないと」

「いいえ」

グランは、静かに首を振った。

「あなた方にできることは、ただ一つ。この鍵を巡る戦いの意味を、決して忘れないことです。私たちが命がけで守ろうとしているものが、無意味なものではなかったと、いつか証明してください」

グラン院長は、二人を船室の外まで見送り、静かに一礼した。その姿が扉の向こうに消えるまで、オルコットは深く頭を下げ続けていた。

巡礼船を辞去する道すがら、ラスクがぽつりと呟いた。

「――院長は、我々よりもよほど、この先の展望を見据えておられるようですね」

「ああ」

オルコットは短く答えた。小型艇に乗り込みながら、彼は振り返って巡礼船の姿を見つめた。武装らしい武装もない、古びた一隻の船。それでも、その内側には、両国のどちらもが手を出せない一つの秘密が、静かに息づいている。その事実だけが、今のオルコットにとって、かろうじて縋れる希望だった。

「艦長は、この先どうなると思われますか」

ラスクが尋ねた。

「わからない。だが、院長の言葉通りだ。俺たちにできることは、この戦いの意味を忘れないことだけだ」

「――正直、忘れそうになる瞬間があります。連日の報告書、会議、対応に追われるうちに、自分たちが何のために動いているのか、時折見失いそうになる」

オルコットは、その言葉に静かに頷いた。彼自身も、同じ感覚を覚えることが少なくなかった。

窓の外には、巡礼船の航跡灯が、灰域の暗闇の中に小さく点っているのが見えた。その光が、いつまで灯り続けるのか、この時のオルコットには知る由もなかった。

(第45話へ続く)