ハイド・ステーションへの帰投後、セシルの処遇を巡って、同盟内部でも議論が起きた。帰投からわずか半日で、作戦本部にはドーベル少将、ラスク、そしてオルコットが呼び集められていた。会議室の空気は、これまでのどの会議よりも張り詰めていた。
《薄明》は帰投直後から、慌ただしい対応に追われていた。損傷箇所の点検、負傷者の手当て、そして何より、セシルという新たな存在をどう扱うかという、前例のない問題への対処。乗組員たちの間にも、これからどうなるのかという不安が、隠しきれない形で滲んでいた。
「連邦の技術士官を、亡命者として受け入れる、ですか」
ドーベル少将は、報告書に目を通しながら渋い顔をした。彼の指先が、書類の端を苛立たしげに叩いている。デルフォスの一件からまだ日も浅いというのに、この短期間に立て続けに起きた事態の重さが、彼の表情に色濃く滲んでいた。
「これは、もはや灰域協定の枠を超えている。連邦は、これを明確な主権侵害と捉えるだろう」
少将の声には、これまでにない硬さがあった。連邦領内での軍事行動という一線を、すでに越えてしまった以上、彼が神経を尖らせるのも無理はなかった。
会議室の壁には、灰域一帯の情勢を示す地図が投影されている。連邦との境界線を示す点線が、以前よりもわずかに太く強調されているのが、オルコットの目には皮肉に映った。まるで、これから両国の間に築かれるであろう緊張の壁を、先取りして示しているかのようだった。
「彼女は、正規管制鍵の存在を知る、数少ない生き証人です」
ラスクが淡々と説明した。彼の表情は、いつもと変わらず平静だった。
「連邦に残せば、遅かれ早かれ処刑されていたでしょう。彼女の証言は、鍵の正統性を裏付ける、我々にとっても貴重な情報源になります」
「情報源、か。まるで道具のような言い方だな」
ドーベル少将は皮肉げに言ったが、オルコットはそれに反論した。
「彼女は道具ではありません。彼女自身の意思で、こちら側に来ることを選んだ人間です」
オルコットの声には、抑えきれない強さがあった。ドーベルは一瞬、驚いたようにオルコットを見た。
「艦長、お前がそこまで彼女を庇うのには、理由があるということか」
その問いに、オルコットは一瞬、言葉に詰まった。答えるべきかどうか、迷いがあった。だが、この場で誤魔化しても意味がないと、彼は判断した。
「――ええ。個人的な感情も、ないとは言いません。ですが、それだけではないことも、先の会議でお伝えした通りです」
ドーベルはしばらくオルコットを見つめた後、小さく息を吐いた。彼のその反応には、呆れとも、どこか諦めに似た理解ともつかないものが滲んでいた。
少将はしばらくオルコットを見つめ、それから小さく息を吐いた。会議室の照明が、彼の顔に深い陰影を落としていた。
「――わかった。正式な亡命手続きを進めよう。ただし、彼女の身柄は当面、厳重な監視下に置く。同盟にとっても、彼女が本当に信頼できる人物かどうかは、まだ確認が必要だ」
「承知しています」
「言っておくが、これは彼女への不信の表明ではない。手続き上、必要な措置だというだけだ。誤解のないようにな」
ドーベルは、珍しくそう付け加えた。彼なりに、この状況における配慮を示したつもりなのだろう。オルコットはその言葉を、静かに受け止めた。
「艦長」
ドーベルは席を立ちかけたところで、もう一度オルコットに視線を向けた。
「今回の作戦、規模は最小限にと言ったはずだ。連邦軍の装甲車両や哨戒艦との交戦にまで発展するとは、想定していなかった」
「――申し訳ありません」
「謝罪はいらん。だが、これで連邦がどう出るか、私には読めない。覚悟だけはしておけ」
その言葉には、単なる叱責以上の重みがあった。オルコットは黙って頷いた。
会議室を出た後、ラスクがオルコットに並んで歩きながら、静かに口を開いた。
「マグダの部隊、死者は出ませんでした。負傷者が二名、そのうち一名は重傷とのことです」
「――そうか」
オルコットは足を止め、目を閉じた。死者が出なかったことに安堵する一方で、重傷者が出たという事実は、決して軽く扱えるものではなかった。
「名前は」
「まだ確認中です。判明次第、お伝えします」
「頼む。必ず、記録に残す」
ラスクは頷き、それ以上は何も言わなかった。オルコットは、この作戦の代償が、まだすべて明らかになったわけではないことを、あらためて思い知らされていた。
会議の後、オルコットはセシルに、この決定を伝えた。彼女は艦内に用意された仮の居室で、窓の外の灰域を眺めていた。
「監視下、ですか」
「すまない。同盟としても、あなたを無条件には信用できない立場だ」
セシルは小さく笑った。その笑みには、諦めとも達観ともつかない、複雑な色が滲んでいた。
「当然です。私は、連邦にとっては裏切り者。同盟にとっては、まだ信用できない余所者。どちらの国にも、完全には属せない立場になったということですね」
「――寂しいか」
「不思議と、そうでもありません」
セシルは窓の外、灰域の暗闇を見つめた。星々の光が、まばらに散らばっている。
「あの集落の光景を見てから、私はもう、どちらの国家にも心から所属できなくなっていたんだと思います。ここに来て、ようやくそれを認められた気がします」
彼女の声には、静かな解放感すら滲んでいた。オルコットは、その言葉の重みを噛み締めながら、彼女の隣に立った。窓の外、灰域の暗闇の向こうに、無数の星々がまたたいている。かつて彼女が見たという集落の光景を、オルコットは直接目にしたことはなかった。だが、彼自身もまた、同じ実験の惨状を目撃した一人として、彼女の言葉の重みを、痛いほど理解できた。
「これから、あなたはどうしたい」
「――わかりません。ただ、今はもう、隠すことに疲れていたんだと思います。祖国のために黙っていること、良心のために告発すること。そのどちらも、私には重すぎました」
「これからは、隠さなくていい」
「そうですね。それだけで、少し楽になった気がします」
セシルはそう言うと、初めて自然な笑みを浮かべた。オルコットは、その表情を見て、ようやく肩の力を抜くことができた。
「――一つ、聞いてもいいですか」
セシルが不意に尋ねた。
「なんだ」
「あなたは、後悔していませんか。私を助け出したことで、これから同盟にも、あなた自身にも、大きな重荷を背負わせることになる」
オルコットはしばらく黙り、それから静かに首を振った。
「後悔はしていない。ただ、これから支払うことになる代償の大きさは、覚悟している」
セシルは、その答えに小さく頷いた。それ以上、彼女は何も言わなかった。
その夜、ラスクからオルコットに、緊迫した情報が届いた。艦長室の端末に表示された文面を、オルコットは何度も読み返した。
『連邦が、正式に外交抗議を提出しました。同盟による軍事目的の人員拉致行為だと、名指しで非難しています。連邦国内では、この件が大々的に報道され始めています』
オルコットは端末を握りしめた。予想していたことではあったが、実際に文字として突きつけられると、その重みは想像以上だった。艦長室の窓の外には、変わらぬ灰域の暗闇が広がっている。だが、その静けさの裏側で、両国の間には、これまでにない緊張が急速に膨れ上がりつつあった。
「――マルコ・ヴィスからの言及は」
彼はラスクに問い合わせた。返答は、思いのほか早く届いた。
『あります。彼が今回の一件の捜査責任者として、公式に名前を出しています。今後、彼が同盟に対する報復措置を主導する可能性が高いとの分析です』
マルコ・ヴィスという名前を目にするたび、オルコットの胸には、名前も知らない敵の存在感が、確かな重みを持って迫ってくるのを感じた。まだ顔も合わせたことのない男が、これから自分たちの運命を大きく左右することになるかもしれない。
セシルの事情聴取を担当していたという男。彼女がどれほどの重圧を受けていたか、その一端を知る者として、オルコットはその男に対して、単なる敵対心以上の、複雑な感情を抱かずにはいられなかった。いずれ、この男と直接対峙する日が来るのだろうか――そんな予感が、拭い難く彼の胸に残った。
ついに、水面下の攻防が、表舞台へと押し出され始めていた。オルコットは端末の画面を暗くし、窓の外の灰域を見つめた。セシルを救い出したことの代償は、これから本格的に支払われることになるのだろう。それでも、彼の中に後悔はなかった。ただ、これから訪れるであろう困難の大きさに、静かに身を引き締めるだけだった。
翌朝、ダーナが艦長室を訪れ、負傷したマグダの部下の名前を報告した。重傷を負った一人は、意識を取り戻したものの、まだ予断を許さない状態だという。オルコットはその名前を、自らの記録に静かに書き留めた。数字ではなく、一人の人間として。これもまた、この作戦が積み重ねてきた代償の一つだった。
「マグダには、追加の報酬を払う。彼女の部隊が払った犠牲に見合うだけの額を」
「承知しました。手配します」
ダーナは短く答え、一礼して部屋を出ていった。オルコットは一人残された艦長室で、しばらくの間、これまでの経緯を静かに振り返った。デルフォスでの鍵の奪取、鎮魂会への引き渡し、そしてセシルの救出。積み重ねてきた成功のすべてに、誰かの犠牲が伴っていた。その事実を、彼は決して忘れないつもりだった。
(第41話へ続く)