トンネル内の照明が、警報とともに赤色灯へ切り替わった。壁一面が血のような色に染まり、狭い通路の先々で、連邦軍の警備部隊が展開する足音が反響する。金属を踏む重い靴音、無線機から漏れる短い指示の声、そのすべてが幾重にも折り重なって、狭い空間を圧迫していた。
配管を伝う蒸気が、赤い光の中でゆらめきながら、視界を断続的に遮った。オルコットは息を整えながら、これまでの経験で培った空間把握の感覚を頼りに、前方の状況を推し量ろうとした。狭いトンネルは、数の上では不利な自分たちにとって、唯一の武器でもあった。地形を制する者が、この局面を制する。彼はそう自分に言い聞かせた。
「艦長、前方に警備部隊、四名確認!」
潜入員が声を殺しながら報告した。通路の先、赤い光の中に、複数の人影が動くのが見えた。
「――迂回できる分岐は」
「あと50メートル先に、旧配管保守用の縦坑があります。ただし、上り下りに時間がかかります」
選択肢は少なかった。オルコットは背後を振り返った。追っ手の足音が、着実に距離を詰めている。額から流れる汗が、目に染みた。彼はそれを拭う間も惜しんで、次の判断を下した。
セシルの荒い呼吸が、すぐ隣で聞こえていた。彼女は壁に手をつき、体勢を立て直そうとしていた。走り慣れない足取りで、これだけの距離を移動してきたこと自体、彼女にとっては限界に近いはずだった。それでも、彼女は一言も弱音を吐かなかった。
「艦長、判断を」
潜入員が急かすように言った。悠長に考えている時間は、もう残されていなかった。
「潜入員、殿を頼む。殺すな、無力化だけでいい」
「了解しました」
潜入員は表情を変えず、短く答えた。だがその声には、これから自分が引き受ける役割の重さを、十分に理解している響きがあった。
「セシル、俺から離れるな。行くぞ」
「――はい」
セシルは唇を固く結び、頷いた。オルコットは彼女の手を強く握り、縦坑への道を示した。
潜入員が振り返り、狭い通路を活かした戦術で追っ手を足止めする。壁の陰から陰へ身を移しながら、非殺傷弾を用いた制圧射撃が、通路に反響した。硝煙とは違う、電磁加速式の非殺傷弾特有の乾いた発射音が、幾度も響き渡る。連邦兵の一人が体勢を崩し、壁に手をついて倒れ込む音が聞こえた。
「動くな! 抵抗すれば――」
連邦兵の怒号が通路にこだました。だが潜入員は冷静だった。狭い通路では、四人の敵兵も一度に射線を確保できない。彼はその地形の利を最大限に利用し、確実に一人ずつ、動きを封じていった。銃口の先には常に相手の肩や脚を狙い、致命傷を避ける照準を保ち続けていた。それは、訓練された兵士だけができる、冷静な判断だった。
「セシル、こっちだ」
オルコットは彼女を伴い、縦坑へと急いだ。老朽化した梯子は錆びついていたが、まだ使用に耐える強度は残っていた。手をかけた瞬間、赤茶けた鉄粉が指先にこびりつく感触があった。縦坑の壁面には、長年の使用で刻まれた無数の傷跡が残り、この場所がかつて確かに稼働していたことを物語っていた。今はただ、逃走のための通り道として、静かにその役目を果たそうとしている。
「上るぞ」
「わかりました」
セシルは息を切らせながらも、梯子に手をかけた。彼女の指先が、慣れない作業に震えているのが見て取れた。それでも、彼女は一段ずつ、確実に上っていった。オルコットはその後ろに続きながら、下方から響く銃声と怒号に、絶えず注意を払っていた。
縦坑を上りきった先は、工業区画の廃棄された配電設備の内部だった。埃を被った変圧器や、蜘蛛の巣に覆われた配線盤が、廃墟然とした空気を漂わせている。ここまで来れば、マグダの部隊が待つ脱出口まで、あと僅かだった。
「潜入員は」
セシルが息を切らせながら尋ねた。オルコットは通信機に手をかけた。
「――俺たちが先に行く。彼には彼の仕事がある」
言葉にするたび、胸の奥が鈍く痛んだ。仲間を戦闘の中に置き去りにする感覚は、何度経験しても慣れることがなかった。それでも、任務の優先順位を誤るわけにはいかない。セシルを安全な場所まで導くことが、今この瞬間の彼の役目だった。
「艦長、こちらマグダ。状況は」
通信機から、マグダの声が届いた。
「追っ手を振り切りつつある。あと数分でそちらに合流する」
「了解。脱出用の輸送艇、準備できてる」
その言葉に、オルコットはわずかに肩の力を抜いた。だが、配電設備を抜けた先で、思いがけない光景が待っていた。連邦軍の装甲車両が、すでに脱出口周辺を包囲していたのだ。ヘッドライトの光が、暗闇の中で幾筋も交差し、鋼鉄の車体が鈍く光っている。
「――囲まれてる!」
マグダの声に、緊張が走った。通信機越しにも、彼女の焦りがはっきりと伝わってきた。
「数は?」
「装甲車両2両、歩兵およそ30名。数では厳しい」
オルコットは配電設備の隙間から、外の様子を覗き見た。ヘッドライトの光の帯が、規則的な間隔で地面を掃いている。歩兵たちは互いの死角を補い合うように展開しており、素人目にも統率の取れた布陣だとわかった。これを正面から突破するのは、明らかに無謀だった。
オルコットは奥歯を噛みしめた。想定していたよりも、連邦の対応は速く、そして厳重だった。この規模の部隊が、これほど短時間で展開されるとは、彼の見立てを超えていた。誰かが、この作戦の存在を事前に察知していたのではないか――そんな疑念が、一瞬、頭をよぎった。だが、今はその原因を探る余裕はなかった。
装甲車両のエンジン音が、低く地面を震わせていた。歩兵たちは整然と展開し、脱出口周辺のあらゆる死角を潰すように配置についている。これほど短時間で、これほど組織立った包囲網を敷けるということ自体、連邦軍の対応の速さを物語っていた。オルコットは、これまでの任務で培った戦術眼を総動員し、この状況からの脱出策を探り続けた。
背後で、潜入員が息を切らせながら追いついてきた。頬に擦り傷ができていたが、大きな怪我はないようだった。
「艦長、追っ手は一時的に足止めしました。ですが、長くは保ちません」
「よくやった。犠牲は」
「こちらはありません。相手側も、非殺傷弾での対応に留めました。おそらく、市街地での発砲を極力避けたいという事情があるのでしょう」
その言葉に、オルコットはわずかに安堵した。この状況下でも、双方が最低限の一線を守ろうとしている――それだけが、まだ最悪の事態を免れている理由だった。
オルコットは短く労い、セシルへと視線を戻した。彼女は壁際に身を寄せ、装甲車両の光を見つめていた。その表情には、恐怖よりも、むしろ静かな覚悟が浮かんでいた。
「艦長」
セシルが小さく声をかけた。
「もし、私がここに残った方が、あなたたちの脱出が容易になるのなら――」
「――言うな」
オルコットは即座に遮った。彼女が何を言おうとしているか、最後まで聞く必要もなかった。
「あなたを置いていく選択肢は、最初からない。それだけは、変わらない」
セシルは一瞬、驚いたように目を見開き、それから小さく頭を下げた。それ以上、彼女はその話題を口にしなかった。
「セシル、あなたを危険な目に遭わせて申し訳ない」
「――今更、謝らないでください」
セシルは震える声で、しかしはっきりと言った。彼女は自分の腕を強く抱きしめながらも、視線だけはオルコットから逸らさなかった。
「ここまで来て、諦める気はありません」
その言葉に、オルコットは小さく頷いた。彼女の強さが、彼自身の迷いを断ち切ってくれるような気がした。あの技術交流会議で初めて言葉を交わした頃の彼女とは、明らかに違う顔つきだった。追い詰められた人間だけが持つ、削ぎ落とされた強さが、今の彼女には宿っていた。
オルコットは頷き、通信を入れた。
「マグダ、陽動が必要だ。輸送艇を、別の脱出口へ回せるか」
「厳しいが、やってみる」
マグダの声には、いつもの余裕はなかった。彼女もまた、この状況の厳しさを正確に理解しているのだろう。
短いやり取りの後、通信は切れた。オルコットは配電設備の陰から、包囲網の様子を注意深く観察した。装甲車両の配置、歩兵の展開位置、そして僅かに残された死角。頭の中で、いくつもの脱出経路を素早く組み立てては、その都度、実現可能性を吟味していった。
隣で息を潜めていたセシルが、彼の腕にそっと触れた。
「――何か、策は」
「今、考えている。少しだけ、待ってくれ」
オルコットは装甲車両の死角になる区画を目で追いながら、頭の中で時間を計算した。マグダが陽動を仕掛けるまでの時間、包囲網が崩れる瞬間、そこに滑り込むための移動経路。すべての要素が噛み合わなければ、この脱出は成立しない。それでも、諦めるという選択肢は、彼の中にはなかった。
包囲網の中、脱出の糸口を探る攻防が始まろうとしていた。装甲車両のライトが、断続的に周囲を掃射するように動く。その光の隙間を縫って動けるかどうかに、すべてがかかっていた。オルコットは呼吸を整え、次の合図を待った。
セシルが小さく息を吐く音が、隣から聞こえた。彼女の緊張が、伝わってくるようだった。オルコットは彼女の肩に軽く手を置き、無言のまま頷いた。言葉はいらなかった。ただ、共にこの状況を乗り越えるという意志だけが、二人の間で交わされていた。
(第38話へ続く)