「――彼女を、助け出したい」

作戦本部に招集されたラスクとドーベル少将に、オルコットはそう切り出した。会議室に、重い沈黙が落ちた。窓のない部屋の壁には、灰域一帯の哨戒配置を示す立体投影図が、静かに明滅していた。その光だけが、三人の顔に青白い陰影を落としている。デルフォスの一件からまだ日も浅く、部屋の空気には、成功の余韻よりも、次に何が起こるかという緊張の方が色濃く残っていた。

オルコットは、この場に呼ばれた時点で、自分がどんな反応を受けるかをある程度予測していた。それでも、実際に少将の表情が険しくなるのを見ると、胸の奥が冷えるのを感じた。

「艦長」

ドーベル少将が眉根を寄せた。彼は書類を机の上に置き、指先でその端を苛立たしげに叩いた。ドーベルは同盟軍の中でも慎重派として知られる人物で、これまでも幾度となく、オルコットの独断専行めいた行動に頭を悩ませてきた。今回の件も、彼にしてみれば、当然想定していた展開だったのだろう。

「お前がそう言い出すだろうことは、報告書を読んだ時点で察していた。だが、察していたことと、許可を出すことは別の話だ」

「今回の任務は、鍵の引き渡しをもって完了している。連邦領内の人物を救出するなど、任務の範囲を大きく逸脱する。それも、まだ拘束すらされていない相手をだ」

「彼女は、我々のために危険を冒しました。今、その代償を一人で背負わされている」

オルコットは、感情を抑えようとしながらも、声にわずかな熱がこもるのを止められなかった。

「同情はする。だが、これは戦争行為に等しい。連邦領内での軍事行動は、灰域協定の比ではない重大な挑発になる」

ドーベルの声は硬かった。彼の言い分が、軍人としては正しいことを、オルコット自身も理解していた。灰域協定が定める非武装地帯の外で軍事行動を起こせば、それは単なる作戦の失敗では済まされない。国家間の緊張を、後戻りできない段階まで押し上げる可能性がある。

オルコットは反論の言葉を探しながら、自分の胸の内にある矛盾に気づいていた。デルフォスの強襲は、国家の利益という大義名分があった。だが今回は、個人を救うためだけの作戦だ。少将がそこに一線を引きたがる気持ちは、理屈としてはよくわかる。それでも、オルコットの中では、その一線こそが間違っているという確信があった。

しばらくの沈黙の後、ラスクが静かに間に入った。

「少将、一つよろしいですか。マーロウ技術士官は、正規管制鍵の存在を知る、連邦側の数少ない生き証人でもあります。もし彼女が拘束され、尋問の末に何かを自白すれば、鍵の存在そのものが公になりかねない」

ラスクの声には、いつもと変わらぬ平坦さがあった。だがその言葉の選び方には、明らかに計算されたものがあった。ドーベルの眉が、わずかに動く。

「――それは、脅しか」

「事実を申し上げているだけです」

ラスクは表情を変えずに続けた。

「彼女が保安局の追及に耐えきれず、我々の作戦の詳細まで語ってしまえば、鍵を鎮魂会に託したという事実そのものが露見します。そうなれば、これまでの犠牲がすべて無駄になりかねません。今回の件は、感傷だけの話ではないと、私は考えています」

オルコットは横目でラスクを見た。この参謀は、いつも感情を表に出さない。だが、その理屈の裏側に、彼なりの計算だけではない何かがあることを、オルコットは薄々感じ取っていた。ラスクもまた、セシルの協力なしにはこの作戦を成功させられなかったことを、誰よりも理解しているはずだった。

「――イオン、お前も彼女に借りがあると思っているんだろう」

オルコットが小さく呟くと、ラスクは一瞬だけ視線を逸らした。

「借りという言葉が適切かはわかりませんが。少なくとも、彼女を見捨てるという選択が、我々にとって得策だとは思いません」

ドーベル少将はしばらく黙考した。立体投影図の光が、彼の顔の陰影をゆっくりと変えていく。やがて彼は、苦い顔で口を開いた。

「――正式な軍事作戦としては認められない。だが、これまでと同じ枠組みで、非公式に動くというのなら、目をつぶろう。ただし、規模は最小限に。発覚すれば、私はお前たちを知らないと言う」

「承知しています」

オルコットは短く答えた。少将の言葉には、政治的な保身の色が滲んでいたが、それでも許可は許可だった。この状況で得られる最大限の譲歩だということも、彼にはわかっていた。

「艦長」

ドーベルは席を立ちかけたところで、もう一度オルコットを見た。

「一つだけ、覚えておけ。これは、お前の個人的な感情のために、私が便宜を図っているわけではない。あくまで、国家機密の防衛のためだ。その線引きを、お前自身が忘れるな」

「――肝に銘じます」

ドーベルは重い足取りで会議室を出ていった。彼の背中には、この決定を下すことへの疲労が、はっきりと滲んでいた。彼もまた、決して冷酷な人間ではない。ただ、艦隊全体の責任を負う立場として、私情を許すわけにはいかない役回りを演じているだけなのだと、オルコットは今更ながらに理解した。

会議室を出た後、ラスクがオルコットに声をかけた。廊下の照明は薄暗く、二人の足音だけが反響していた。壁に沿って並ぶ非常灯の緑色の光が、二人の影を長く伸ばしていた。

「艦長、本当によろしいのですか。あなた個人の感情で動いているのではと、疑われても仕方のない状況です」

オルコットは即座には答えなかった。しばらく歩を進めながら、頭の中で言葉を組み立てていた。

「――感情でないとは言わない。だが、感情だけでもない。彼女を見捨てれば、次に同じ状況に置かれる誰かも、我々のために動いてはくれなくなる。それは、任務としても正しくない判断だ」

ラスクは小さく笑った。それは、彼にしては珍しい表情だった。

「その理屈、少将には通じても、私には半分しか効きませんね。まあいい。信じることにします」

「信じなくても構わない。ただ、動いてくれれば十分だ」

「手厳しい艦長だ」

ラスクはそう言うと、少し歩調を緩めた。

「わかりました。マグダへの連絡は、私から入れておきます。彼女なら、連邦領内への潜入経路について、いくつか心当たりがあるはずです」

「頼む。それと、費用については、私個人の口座から出す。同盟の予算を使うわけにはいかない」

「その点はご心配なく。この作戦、非公式である以上、帳簿には残せません。艦長の懐が痛むのは、避けられないでしょうね」

「いくらかかると思う」

「マグダの過去の仕事を踏まえるなら、最低でも艦長の三か月分の俸給には届くでしょう。連邦領内という危険地帯への潜入となれば、それ以上を吹っ掛けてくるかもしれません」

オルコットは軽く息を吐いた。金額の問題ではない、と自分に言い聞かせながらも、具体的な数字を突きつけられると、やはり胸の奥がざわついた。それでも、迷いはなかった。

「払う。それだけの価値がある」

「そう言うと思っていました」

ラスクは薄く笑い、それ以上は何も言わなかった。

その夜、オルコットはマグダに連絡を取った。回線がつながるまでの数秒間、彼は自分の心臓の音が、いつもより速いことに気づいていた。艦長室の壁に貼られた星図には、灰域を挟んで両国の領域が色分けされている。連邦領内という文字を見るだけで、胸の奥が締め付けられるような感覚があった。

「――また、無茶な仕事かい」

マグダの声は、いつもと変わらぬぶっきらぼうさだった。だがその奥に、かすかな懸念が滲んでいるのを、オルコットは聞き取った。

「今度は、連邦領内だ」

通信の向こうで、マグダがしばらく沈黙した。回線の雑音だけが、静かに響いていた。

「連邦領内、ね。あんた、正気かい」

「正気じゃないと言われても、否定はしない」

「せめて理由くらいは聞かせとくれ」

オルコットは、これまでの経緯を手短に説明した。セシルという協力者がいたこと、彼女が今、連邦保安局の監視下に置かれていること。マグダは黙って聞いていたが、話が終わると、小さくため息をついた。

「――なるほどね。デルフォスの護送ルート、あんたらだけの力で割り出せたわけじゃなかったってことか」

「その通りだ」

「義理堅いこった。嫌いじゃないよ、そういうの」

「――金額次第だけど、話は聞くよ」

その返事に、オルコットはわずかに肩の力を抜いた。少なくとも、まだ扉は閉ざされていない。彼は端末の前に座り直し、これから詰めるべき計画の輪郭を、頭の中で組み立て始めた。連邦領内へ潜入し、監視下にある人物を、誰にも気づかれずに連れ出す。デルフォスの強襲作戦とは、また違う種類の困難が待っているはずだった。

窓の外には、係留区画に並ぶ艦艇の灯りが、規則正しく明滅していた。オルコットはその光を眺めながら、これから始まる作戦の輪郭を、もう一度頭の中で整理した。連邦領内は、彼らにとって完全な敵地だ。デルフォスのように国境地帯の要塞を狙うのとは違い、今度は市民生活の営まれる場所に踏み込むことになる。銃火を交えることさえ、極力避けねばならない。難易度は、これまでのどの任務よりも高いはずだった。

それでも、彼の決意は揺るがなかった。セシルを見捨てるという選択肢だけは、最初から彼の中に存在していなかった。

翌朝、彼は乗組員たちに、次の任務の概要をどこまで伝えるべきか考えあぐねた。詳細をすべて明かせば、彼らを危険な立場に巻き込むことになる。だが、何も知らせずに動かすのは、指揮官として不誠実だとも思えた。結局、彼は最低限必要な情報だけを共有し、志願を募るという形を取ることにした。

(第34話へ続く)